The party in the high castle

遥かなる高みに聳える、アタラクシアの砦を目指して

鎮魂と統制と救済

 クリストファー・ボーム『モラルの起源』(白揚社、2015年)が非常に面白くて感ずるところ大なりだったので書くことにした。

 現代の人間の道徳観は石器時代にチームで大型動物を狩るようになってから形成されたという仮説。共同体に危害を及ぼすエゴイスティックな行動を評判で抑制していて、それを抑制できない真性エゴイストは遺伝子的に駆逐される一方、利他精神を内面化(すなわち罰を恐れてではなくそれが正しいと思う、それをすると誇らしいからという理由で規範に従う)した人が選別されてきて、道徳が定着するに至ったという内容。もう一つ興味深かったのは人にはエゴ、身内びいき、利他という三種類の心理が備わっていて、食料などの資源が豊富な時は利他が効果的に機能するが、欠乏すると利他に制限をかけるだけの柔軟性もある、ということ。極限の飢餓状態では親が子を喰らうという衝撃的行動さえも人は取り得て、かつ、それを(心理的苦痛は味わいつつも)道徳的逸脱とは必ずしも捉えない。生きるためには徹底的にエゴイスティックにならねばならぬ時もあるわけだ。事実こうして我々の祖先は欠乏が恒常化する厳しい時代を生き抜いてきた。

 この内容を兼ねてより書き殴ってきた「鎮魂と救済」の文脈に当てはめるとどうなるか。まず人間の捉え方だが、エゴ、身内びいき、利他があるのは皆共通だがその範囲や生態的状況に応じた挙動は千差万別である。どんなに豊かで満たされた環境でも人を殺したりしないと気が済まないサイコパスがいると思えば、飢餓寸前でも他者にパンを分ける極端な利他主義者もいる。とはいえ、ほとんどの人間が当てはまるであろうところの「標準的」なあり方というのはきっとあって、それをモラルマジョリティと呼ぶことができる。

 また、利他が制約される状況をつぶさに見ると、そこの根元には欠乏への恐怖があるように思える。平時は仲間に公平に肉を分けていた原始人が、緊急時にカニバリズムに走ったという事実が示唆するのは、飢餓のような欠乏が利他を制限するというある意味直感的に当たり前の事柄であるが、一歩進んで、「飢餓の恐怖」もまた利他を制約しうるだろう。以下の例を考えてみる。

 私は30人の部族で暮らす狩人である。従来は縄張り内で比較的豊かな暮らしをできていたものの、最近縄張りに別の部族が侵入するようになった。狩場には幸い動植物が豊かに存在し、直近で物資の欠乏になるとは思えないが、侵入者の意図や実態次第でもある。たまたま間違って侵入したのか、あるいは増えすぎた家族を養うべく侵略的意図を持って偵察しているのか、後者であれば私の仲間の平穏が危機にさらされていることになる。

 翌日、狩場に行くと10人程度の狩人が我が物顔で獲物を仕留めていた。昨日見かけた人も含まれている。こちらのことは気づいているようでもあるが、すくなくとも敵意はない。直ちに戦闘するのは得策ではないが、相手方の人口規模はこちらと同等程度ではあろうし、両部族を養うほどの獲物は当然いない。何らかの対策が必要だ・・・

 初日の時点で狩人は恐怖を覚えた。それは具体的な欠乏の恐怖というよりも、相手の狙いがわからない、何が起きているかよくわからないという茫漠とした不安であった。<A>

 しかし翌日、相手を再び目撃することで、縄張りにおいて競合していることを明白に理解した。短気な人であれば怒りを覚えて闘争心を駆り立てられるだろう。具体性を帯びた欠乏への恐怖が、是に於て最初に生まれることになる。<B>

 こうして集団に恐怖が生まれると、敵意や嫉妬といったネガティブな感情が連鎖的に発生する。いずれも利他を制限する毒である。モラルマジョリティがこの毒に感染し暗転する時、集団は闘争的になる。なお「集団」は共同体内の小勢力かもしれないし、敵対共同体に対峙するある共同体そのものかもしれないし、強大な勢力の前に連衡する共同体群かもしれない。大きさはともかく、一定の「他者」を敵と認定する、友敵作用が生じるということである。<C>

 社会が分断され価値闘争の様相をすれば、遅かれ早かれ破綻が待っている。革命・内戦・戦争が生じ、秩序は乱れ生活は破壊される。例えば時間をかけて作った菜園は無残に蹂躙され、住居は破壊される。漁に使う道具も船も壊され、まさに欠乏が襲いかかる。<D>

 

 このように、多くの人間が隣接して集住し、限りある資源を共有する世界においては、A-Dの流れがしばしば起こることになる。とはいえ、それぞれのステップにおいて人間にできることもある。

 A: 鎮魂-1。状況を冷静に分析把握する。確かに見知らぬ人がいたが敵とは限らない。迷っただけかもしれない。仮に狩場を奪おうとしているのだとしても、対話の余地がないではない。焦るな、恐るな、ゆっくり確かめよう。

 B: 鎮魂-2。相手が敵である可能性が高いことはわかった。しかし闘争すれば互いに失うものの方が大きい。現状において食料が不足しているわけではないし譲歩の余地もある。せっかく落ち着いてきた良い居住地だったが、最悪移転もできなくはない。なーに、相手だって同じ人間、仲間のために狩場を探しているんだ。俺たちがそうするように。「敵」だなんて大げさじゃないか。

 C: 統制。すっかり闘争状態が定着した。仲間を守るのが善であり、敵を倒すのも善、全く同様のことが敵側にも成り立つ。善悪の世界を超えた灰色の世界。マキャベリズムの権謀術数を駆使して敵を制圧し、統制する。

 D: 救済。世の中は戦闘で荒廃した。農地は荒れ果て家は壊された。多くのものが死んだ。しかしこれが世界が終わるわけではない。まだ生きている人もいる。家を再建し、土を耕し船を編もう。生きるために汗を流そう。

 現代はどのステップにいるだろうか。資源減耗が進み経済の縮小が視野に入ってきた中で、利他を制約する毒が回りつつあるようにも見える。社会的合意はままならず、一方で統制志向の政治が目につくようになっている。暴力的闘争や崩壊を避けるための統制は、目的こそ崇高なれど他者の抑圧を前提し、価値闘争の激化を招かずにいない。一時的な統制も、原因たる価値対立を強化するのでは、構造的袋小路と言わざるを得まい。

 蓋し救済こそが未来につながる道である。

 

救済と鎮魂

 プラトンアリストテレスエピクロスエピクテトスマルクスアウレリウスあたりの系譜を齧って「アタラクシア」すなわち不動心こそ幸福であり善であると考えてきたが、その中で、利他すなわち他者の幸福にどう貢献するかというのが大きなテーマになっている。利他は所詮虚栄でありどうでもいいではないか、という気もしなくもないのだが、日常の中でその気分が長続きすることはあまりない。「友好的感情」が善であり、「敵対的感情」が悪、といっては雑だろうか。でもこれは、かなり直感に合致する。

  戦争と平和というテーマを少し掘り下げる。争いのわかりやすいパターンは、希少資源を巡るものである。FEWS(希少のfewにかけて):Food, Energy, Water, Shelterが人間生存の4要素であり、「健康」の基盤とも言える。これが欠乏すれば純粋な生物学的闘争が生じることになる。しかしこれらが十分に満たされていても、人は争うのである。それは恐怖や虚栄心、怒り、嫉妬といった「赤黒い感情」によるものである。隣国の経済的軍事的成長に嫉妬と恐怖を覚えれば、対抗して自国の軍事力を増やそうとする。それが相手を刺激して軍拡になる。臨界点を超えると戦争になる。古代より戦争発生パターンとして知られる「トゥキュディデスの罠」だ。「善」が「友好的感情」であるならば、ここでいう「赤黒い感情」は明らかに悪である。論理的帰結として悪に行き着くものはやはり悪であるならば、例えば脅迫は悪である。銃口を突きつけられば恐怖が湧くし、その理不尽さに怒りも沸くのが普通だからだ。であるならば、「抑止力」もまた悪になる。それはニュートラルな言葉だが本質は脅迫だからだ。

 ここで「鎮魂」という概念が出てくる。鎮魂とはすなわち、敵対的感情を解毒して友好的感情に変換する説得作用を指す。隣国の成長を嫉妬と恐怖の目で眺める同胞に対しては、その懸念を払拭せねばならない。過大な野心と傲慢さで拡張する隣国の民には、節制を説かねばならない。これは明らかに理想的・空想的であるが、少なくとも「善」の論理が指し示す結論はこうなる。相手が怖いのは仕方ないから武装して抑止する、というのは、論理的には悪ということになる。

 ところで鎮魂というのは、敵対する相手側に対して言葉のみでできるものではない。敵から「まあ落ち着け」と言われて落ち着くバカはいないのである。ゆえにそれは専ら同胞に向けられるものになろう。相手の鎮魂は、こちらの譲歩という覚悟を示すことでのみ実現する。

 ところでFEWSが欠乏すれば、生物的宿命によって、やはり赤黒い感情が生じる。これを抑えることは「鎮魂」というより「救済」といった方が良さそうだ。飢えた人に食事を与える、家なき子に屋根を与える、凍える民に暖を取らせる。人間の生理的欲求を満たすことは、敵対的感情すなわち悪を除去するという意味で善である。(飢えた人も肥えた人も等しく怒りや嫉妬を覚えるだろうが、その度合いや頻度は大きく違うと思われる。衣食足りて礼節を知るという言葉もある。)

 そうであるならば、「鎮魂」と「救済」が、他者との関係において可能な「善」ということになる。顔の見えないアノニムな他者に対しては「鎮魂」のハードルは高い。私はむしろ、「救済」に尽力したいと思う。なお家族や友人、同僚といった「最小共同体」においては、この双方が実現可能であり、そのために努力するのが善い生き方ということになる。

  最後に思考実験として暴力的な武装集団に襲われるケースを想像しよう。そこで「鎮魂」の余地があるのだろうか。譲歩すればそれすなわち自らの生命財産、あるいは愛する家族や友人のそれを差し出すことになるのではないか。非暴力・不服従がありうるのか。蓋し「闘争」は悪であっても、「逃亡」は悪ではない。逃げるは恥だが役に立つとはよく言ったものである。逃亡先に新天地を見つけ、そこにおいてFEWSを満たす限りにおいて善は維持される。絶望的苦難にあっても希望のエクソダスはありうるのであり、その逃避行や新天地捜索の努力は尊いものであろう。人はその創意工夫と情熱によって、砂漠の中にも、海原の上にさえ生きることができる。FEWSの限界を乗り越えて幸福を掴むことができる。鎮魂の希望が絶たれた中でさえ善の光は消えない。

 FEWS, everywhere.これは善のスローガンである。

 

 

 

善く生きるとは 9

 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を齧ったので、そこら辺を踏まえてまた考えた。

 快楽はある一定水準までは自然的であり善いが、それを越してくると依存傾向が出て悪になる。だから魂の陶冶によって欲望を統制し、自然的水準で満足できるようにすべきである。この時精神は安定を獲得し、淡い幸福に包まれるのである。では自然的欲求が満たされない状況は悪なのか、というと、悪ではない。しかし、その苦痛から逃れようとすることは、それが自然的範囲に留まる限りで、やはり悪ではない。むしろ善と言えるのだろう。私としては、ストア派エピクロス派も正直変わらないと思っている。自然的快楽にどこまで積極的意味合いを持たせるか、という差異に過ぎず、非自然的・過剰・依存的快楽を敵視している点では共通しているからだ。

 蓋し善には他者との関係のあり方も含まれるだろう。他人を幸福にするのは善であり、不幸にするのは悪だと、直感は主張する。では他人を幸福にするとはいかなることか。これは第二段落で述べたことがそのまま妥当する。すなわち、魂の陶冶を助け、その上で、つまり欲望を制御させた状態で、自然的快楽を満たしてやることである。この順序は極めて重要だと思う。精神修養無くして快楽を与えるのは、制御されない爆発連鎖を誘引することであり、崩壊へと至る壮大なドミノの最初のピースを倒すことに等しい。欲望制御という安全装置がある限りにおいて、快楽は善いのである。ではこの「精神修養の補助」とは何か。布教活動か。そうかもしれない。私の哲学は宗教と言えるほどの内容ではないが、ある他者に対しこういう考え方を受け入れてもらって、アタラクシアを目指しましょう、それが幸福ですよね、と説いて、はい心からそう思います、とならないといけない。これはどうしたらできるのか。

 昔の宣教師のように旅して回って説教するか。現代の作家やYoutuberのように、自分の意見を文章や動画にして配信するか。いずれも悪くなさそうだが、しかし、真の意味で相手の精神に作用するには、生活を共にするほかないような気がする。一挙手一投足、発言の節々、自分の生き様それ自体がアタラクシアを体現する限りにおいて、その芳しさが他者に伝播するのであって、リーチ数は問題ではないと思う。そして生き様を示せる他者というのは、すなわち身近な人々、隣人以外にはない。いやむしろ、「数」というアノニムな概念に執着することは、アタラクシアを伝道せんとする自分自身をして名誉という欲望の奴隷たらしめることに他ならず、そんな名誉欲の支配下にある「不動心」を誰が信じるだろうか。深さよりも広さを志向する時点で、目的から遠ざかるのである。

 そうして魂の統御を実現した他者に対し、自然的快楽を提供するのは善である。仲間にパンを分けたり、看病をしたり、共に歌ったり。などなど。とはいえこの善は、魂の救済の善を主とするならばむしろ従、前者をカツ丼とするならば後者はお新香である。逆に、魂へのエンゲージができない「赤の他人」に対して、「自然的範囲内であれば善であるから」ということで快楽を提供せんとするのは、厳密には善でないどころか、先述の通り、欲求の無限階段、メフィストの罠へと貶める行為でありむしろ悪とすら言えよう。また、その「赤の他人」に苦痛を与えることは、無論悪であることに違和感はない。

 まとめると、「善く生きる」とはまず第一に自分の精神を統御してアタラクシアを実現することである。第二に、その生き様によって隣人の魂をも救済することである。この時、広さよりも深さを優先し、かつアノニムな他者への無責任な関与は最小化することである。最後に、これは必須ではないが、自然的範囲の快楽を堪能することである。つまり善く生きるとは、徹底的に身近な生活空間と向き合うことと言えよう。

善く生きるとは 8

 「善く生きること」を「幸福」と定義するとして、「善く生きるとは」何かをずっと考えている訳だけど、究極的には言葉の定義問題に帰着するのでは、という感じがしてきた。

 「善」の中身が全く不明な状態であることを明示するべく、「善」をあえてXと呼ぶことにする。Xの中身はわからないが、Xが備える性質・条件はいくつか言えることがある。すなわち、

 「Xの実現において、全人類は平等である」

 「Xの実現において、各人は自由である」

ということかと。これを真とするならば、対偶を取って、

 「全人類に平等に開かれていないものは、Xではない」

 「その実現において不自由を被る人がいるものは、Xではない」

もまた真であろう。

 

 「善」の中身を検討するにあたっては、これが手掛かりになりそうである。現代の公共哲学は、原則的に物理的快楽の実現を善と捉えているように思える。功利主義リベラリズム共同体主義と言った哲学教義の対立は富の配分をめぐる議論であって、富(究極的にはエネルギー余剰)自体に価値があることは同意しているようだ。こうした議論は上の命題によるテストに堪えうるだろうか。

 富あるいは物理的資源は有限であり、かつ偏在する。肥沃な大地・降り注ぐ日光・水源・油田、これらは地理的制約ゆえに平等には分布しない。それを人工的に均等配分する場合は追加エネルギーが必要であり、その配分者への富の集約なくしては実現できない。社会主義国家の中央政府が過度な権限集中と腐敗に満ちていたことがその証左であり、結局、富を人工的な中央に再配置したに過ぎない。つまり、物理的資源は全人類に平等に開かれてもおらず、かつ、その獲得においては不自由を被る人間が必ず出る。これが歴史の真実であろう。

 であれば、物理的資源配分は「善」の条件を満たさない。よって、「善」は物理的資源配分とは一切関係がないと言えるのではないか。貧困に生まれたり戦場に生まれるだけで「不幸」であり、豊かな人間は「幸福」であり、不幸な人間は恵みを乞う立場とされるのは、前者の尊厳が踏みにじられている。憐憫を垂れてもらって資源を分けてもらうというのは、幸福なあり方ではあるまい。では次の問いは、何が善の条件を満たすのか、である。

 答えは、ありきたりだが、各人の精神の中にあるということだろう。ストア哲学が主張するように、精神はいかなる暴力や困窮さえも侵すことのできない、各人の絶対的自由領域であり、かつ、人間としての思考機能を持つ限り、誰もが等しく持つものである。この点、大富豪もスラムの孤児も、善の実現という人間の究極的目標においては全く同等の地平に立っているのである。そして私が考えるに、これは人類の平等という点で望ましい。(これは善を物理的資源配分と紐づける立場からは出てこない前提であろう)

 物理的資源配分(この場合、「他人」を含むあらゆる外部環境)は確かに人の愉悦・苦悶(痛みや不快感)に作用するであろうが、それは「善」とは別の何かである。とはいえ、これで善が明確に定義できた訳ではない。各人の精神がいかなる状態であるとき、善いのかはまだわからない。神の教えに従い思考している状態なのか、ストア哲学に習いアタラクシア(不動心)を達成した状態なのか。しかしこれは各人の自由なのかもしれない。私は今のところ、不安や恐怖、悩みに満ちた状態ではなく、常に落ち着き、満ち足りていて、淡い幸福感を感じている精神状態を幸福と定義している。

 ところで各人の「善」が、各々が追求するところのその人の精神的状態であるとする場合、他者との関係はどう整理されるだろうか。いわゆる優しさや利他主義の中身は何になるのか。

 優しさが他者の幸福を願うことであるならば、それは他者の善の実現を願うことであるが、善の実現は徹底的に個人の精神的作業であるから、物理的資源配分を通して優しさの実現は不可能ということになる。さらに、仮に幸福を欲求充足と定義した場合でさえ、物理的資源配分によって充足されるのは肉体欲求のみであって、マズローに従えば、それが満足されるや否や精神的欲求が生まれることは周知であり、理性による抑制を発動しない限り人は永遠の欲求不満に苦しむ訳であるから、他者に富を分け与えることはマクロに見ればその人の幸福には繋がっていないのだと思う。いわば喉の渇きに苦しむ人に冷えたビールを与えるようなものだ。瞬間的に渇きは癒えるが、アルコールにより中長期では脱水されてしまう。

 一方、宣教師のように、精神的営為のガイドを示すことは、優しさの実現につながるかもしれない。ここで生じる最後の問いは、優しさは善に含まれるか、ということである。言い換えれば、理性の制御によって一切の利他心を捨て、周囲の状況と自分の精神状態(例えば虐殺のような悲劇)を完全に切り離し極限の不動心を実現したその人は、果たして善い人なのか、という問いである。

 直感的には、その人は冷徹な鬼であって、善くない。しかし、見ず知らずの土地で他人が苦しんでいることが明らかな現代において、そういう人の悲劇に心を痛めないからといって善くないと言われる筋合いもなさそうだ(これは後で少し検討)。また、共感感覚は個人差があり、一切の他者に共感を抱けない精神構造の人間は、それが生まれつきであっても善くないことになり、それは善の平等・自由原則に反する。つまり他者をどう思うか、どう関わるかは善とは関係ないのではないか。

 では他者を加害しても善は損なわれないのか。エピクロスなら、他者の加害は、それが「自分の」精神を掻き乱し不動心を脅かす限りにおいて悪、というかもしれない。つまり各人が持つ他者への共感感覚次第ということだ。いやしかし、各人の精神は理性により制御できるのであれば(肉体的苦痛においても幸福になれるというくらいであるから)、共感感覚もまた、理性によって拡張できるというべきではないか。そしてそれができるのであれば、拡張すべきなのではないか。つまり、本能的にはそう思わずとも、理性によって、アフリカで苦しむ子供を思って心を痛めるのが善いのではないか。

 一つの妥協的整理として、各人の生まれつきの共感感覚を理性によって拡張するよう努力すること、は善さの要素に入るかもしれない。その範囲は個人差があるし、他者の幸福をどれだけ実現できるかは物理的資源アクセスが影響するから、現実的な他者貢献度合いは善さのレベルに影響しない。つまり「敵味方なく、あらゆる他者の幸福を祈る」姿勢こそが善いということだろうか。

 すると善く生きるとは、すなわち自分自身の不動心を維持しつつも(あるいはその基盤があるが故に)、他者の幸福を祈る態度を保つこと、と言えるかもしれない。

 

善く生きるとは 7

 ここ一ヶ月くらい善く生きる事について徹底的に考える中でわかったことがある。善の理論の「正誤」判定は結局のところ「私」の直感に頼るほかない、ということである。トロリー問題じゃないが、どんな理論も、ある特定のシチュエーションにおいてその理論が指示するところの行為・選択が正しいかは、それをイメージして、「うん、そうするよね」と心の底から思えるか、という至極曖昧で利己的な判定しかできない。そして「直感」の中身は十人十色である。これが世の中に多くの「正義」が存在する理由であろう。

 この直感は多分DNAと幼少期の教育によって決まっていて、今更理性で矯正できるものでもないような気がする。では「善く生きる」とは結局のところ「直感」に従って生きるということなのか。それもちと違う気がする、少なくとも「理性」にも何らかの役割があるのではないか。

 状況を整理すると、確実にわかっていることは以下の事柄。

1:私には私の利益がある。(マズローの欲求段階的にいえば、生存、共同体所属、承認、他者貢献)

2:同様に他人にもその人の利益があると想定されるが、それが具体的に何であるかは究極的にはわからない。

3:社会で生きる以上他人と共存するほかなく、往々にして利害が衝突する。そのとき、自分と相手の利害をうま〜くバランスするのが「善」ではないか。

 

 3において利害のバランスを取るとき、必要なのは思いやり・想像力である。自分がこうしたら相手はどう思うだろうか、というのを、様々なシナリオを思い描きながら、理性と直感を総動員して考える、そういう姿勢が善ではないか。その結果、結局自分のエゴを優先して他人を害してしまうかもしれない。それは仕方ないかもしれないしそうでないかもしれなく、答えはないので、永遠に悩めばいいと思う。状況の微妙なニュアンスによって答えは変わるので、一般化して語れるほど単純じゃなさそうだ。

 

 ところで「人の役に立ちたい」というのは一見善く響くが突き詰めればエゴだと思う。誰かを喜ばすのは実際快感であり、良い人だと思われればまた気持ちいい。ほとんどの人間が本能的に持つ共同体感覚として、貢献欲求はあると思う。(まあ、他人はわからんのだけど。少なくとも私はそう感じる)あるいは本当は嫌だけど義務感で「善」をなそうとするとき、その動機は何か。善くありたいのはなぜか。「善くありたい」というのは欲望の表明に他ならない。その先に天国が待っているのかは知らんが、自分の理想像に近づきたいという意味でやはり利己心が根源にある。別に利己心だから悪い訳ではないのだが、そうやって他人・社会に働きかけることで実は誰かを不幸にしてないか、ということを、理性と直感を動員して絶えず検証せねばならない。ただし、結局判定は自分の直感任せなので、真実は絶対にわからないのだけど。

 

 などという綺麗事を言っても結局エゴイストであることからは逃れられない。他人を幸福にするためにあなたは死ね、と命じられても躊躇ってしまう(というか無理)のはその証拠だ。まさにマズローの欲求段階の通りで、肉体が健康で身近な共同体とうまくいっている限りにおいて、「人類への貢献」などという呑気なことを言えるのであって、大怪我をしたり難病になれば今日を生きることで精一杯なのだ。それを誰が責められよう。

 

善く生きるとは 6

 「誰も不幸にしない」を徹底しようとこの一週間過ごしてみたが、発狂しそうである。どう考えても普通に生きているだけで誰かを害しているし、まして石油開発などというビッグ・ビジネスに関与すれば否応無しに誰かの機嫌を損なっているだろう。

 そこで少し戒律に変更を加えてみたい。

 

「誰も害するな。但し自分の核心的利益(Critical Core: CC)を守るために必要であるときは、この限りでない」

 

 まあごく普通の、それこそ古今東西の掟に共通していそうな戒律なのだが。このポイントは「自分の命とか、人によっては信仰とか、とにかく大事なものを守るためなら、人を害しても仕方ないよね」という妥協である。怠惰と言われればそこまでだが、正気を保つために必須であると判断した。

 他者と共存すれば色々な摩擦があり、自分のCCが脅かされる瞬間はある。その時、この戒律に従うならば、人には反撃権(自衛権とでも言おうか。自然法みたいだね)が生じる。興味深い事に、近代国民国家における社会契約論は、この各人が保持する自衛権を政府に移譲して、政府が代理行使する、みたいな建てつけであると気づく。但し政治領域においてはそうでもない。例えば軍事的に優越する隣のA国との外交政策をめぐり、怖いから大人しく服従しようという人と、自国のプライドにかけて断固立ち向かうべきという人もいて、そういう政策がそれぞれのCCに直結するとき、政治的闘争は不可避である。現実的には選挙という方法を通じて多数決で決着がついてしまう。負けた方に救済はない。例えば宥和派(服従派)が買ったとき、強硬派のCCは侵害されているから、それを回復すべく他者を加害する権利が生じるが、それは国家に取り上げられ遂に行使されることもなくドブに捨てられるのである。これは可哀想ではあるが、宥和派も強硬派もそれぞれ正当なCCを巡って闘ったわけであり、その闘い自体は善いかはわからないが少なくとも悪くはない。強いていえば価値中立であろう。(ちなみに、各人のCCは保障されるべきなのにそうなっていないとき、様々な理由で理不尽に抑圧されるとき、法体系という制度の限界を打ち破るべく暴力に訴える=テロリズムが許されるか、というのは興味深い問題かと思う。)

 各人のCCが共通であれば、「誰のCCも犠牲にしない限りで、あらゆる人のCCを保障するよう努めるのが公共善」などと定義できようが、第一に人によりCCは異なり完全に把握するのが非現実的なので、もはや何もできない。仮に同じでも(例えば肉体的健康)、誰のCCも犠牲にせず、という条件はクリアが難しい。有名なトロリー問題も、一人を犠牲にして五人を救う、というのはこの戒律では正当化できない。ちょっと変えて、一人の手首骨折と引き換えに誰かの命を救えるとき、あなたはその人の手首を折るか、という問いも、私は慎重に考えるべきと思う。その人がピアニストで、手こそアイデンティティ、魂の全てという状況だとしたら、そう簡単に手出しはできまい。もし私が手出しするのを正当化するならば、それは死にかけているもう一人が持つ加害権を、私が代理行使するという整理になろうが、この「代理行使」を個人に許可してしまえば、私は世界中の「CCを危機にさらされた人々」が持つ膨大な「加害権」を代理行使することで、圧倒的暴力を放つことが許される事になってしまうが、これは直感に反する。(法的・社会契約論的には、それが許されるのは唯一政府、より厳密には「法体系」である)

 というわけで結局各人にCCがあって、どうしようもなく対立するときはもう相手を害すのは仕方ない、と。漁師がいて魚を捕まえて生きています。ここに魚の権利を主張する人間がいて漁業は魚の権利を侵害するのでやめてください、あなたが漁をする事で私のCCが侵害されます、という人が現れたとしよう。漁師は漁業で生計を立てているのでありその停止はCCに抵触する。是に於て両者は対立する。あとはバトルしてもらうほかない。そのバトルは価値中立である。同様に私は石油開発に従事して生計を立てていますからそれによってCCが侵害されるからやめてくださいと言われたとしたらその主張こそが私のCCを侵害するので闘争に至る。これは仕方ない。怠惰な態度かもしれない。どうだろうか。

善く生きるとは 5

 「誰かを幸せにする」は分かりやすいが、「誰も不幸にしない」を徹底的に考えると行き詰まる。こうして快適な家に住みWifiを利用しながらパソコンを打っている時点で、大量の化石燃料エネルギーを消費しているし、このデバイス製造過程を通じてアフリカの児童労働や中国における有毒化学物質汚染に関与していることになる。「文明人」でいるだけで誰かの犠牲を強いているのである。

 「善く生きる」を追求する上で、3段階考えてみた。初期段階は「文明人」、次が「未開人」、最後が「死者」である。

 文明人でありながら善く生きるにはどうすればよいだろうか。文明がもたらす弊害を少しでも減らすよう努力することだろうか。例えば電子機器のサプライチェーンから児童労働や有毒物質の排出を減らすよう働きかける、あるいは石油生産における安全性を高めるよう努力する、新薬開発における非人道的な実験を根絶する、危険な核兵器を削減する、など。このように文明が撒き散らす毒素を浄化することは可能であり、そのために献身するのが正しいだろうか。しかし外側から「正義の味方」として当事者を声高に、かつ暴力的に非難するような立場にはなりたくない。そこにあるのはモラルハイグランドから相手を殴り倒す残虐性であり、私の追求する善さとはかけ離れている。文明を前提しているのだから、文明自体を批判するのは筋違い(しかもそれは多くの人を不愉快・不幸にするだろう)であって、むしろ文明を支えつつ、ESGのように産業界内部での思想転換、歩み寄りによって文明を解毒する、そういう可能性が探れるのではなかろうか。ちなみに私の考える善さとは「誰も不幸にしない」かつ「誰かを幸福にする」であるが、文明に身を置く場合、文明=相互依存システムなので誰かを幸せにしていることは疑いようがない(でなければ文明社会で賃金を得られない)ので考える必要がない。ひたすらに、犠牲を最小化することを考えるのが善い。

 そうはいっても文明は完全には解毒されない。つまり文明社会に生息する限りにおいて誰かの犠牲の上に立つ事になるのであって自分は悪であり続ける。ドラスティックな解脱を求めれば、脱文明化すなわち「未開人」になるほかない。グローバルサプライチェーンから離脱し、完全自給自足を実現する。ソローが『森の生活』で目指したのがこれだったのかは知らんが、そういうイメージ。その中で属する最小コミュニティに献身することが、「誰も不幸にせず、誰かの幸福に貢献する」という、善き生き方の実践になるのではないか。

 但し、最小共同体といえど他者と関わる限りにおいて、悪が生まれるリスクがある。自分の利益と他者の利益がどうしても相反し説得も合意も不可能であれば、どちらかは不幸になるほかないのであり、善くない。こうして、究極の善さの完成として「死」が出てくる。死ねば誰も犠牲にすることはない。しかし誰も幸せにできないではないか?ところが人間は死してなおその人を愛するものの魂にて生き続ける。それならば、肉体の存続すら必要ではない。善くあらんと生きた証が身近な誰かの脳裏に刻まれその人を鼓舞する限りにおいて、死者すら誰かの幸福を支えているのであり、「死」は善の完成を意味する。