古典的冒険譚と植民地主義

大げさなタイトルですが、今回のテーマはゲームです。テレビゲーム。

好きなゲームを三つあげろと言われたら、ゼルダメタルギアアンチャーテッドをあげます。今回は最後のアンチャーテッドのお話。

 アメリカのnaughty dogというスタジオが作っているゲーム。このスタジオは傑作を量産すると名高くて、例に漏れず圧倒的名作がこのシリーズ。4作目まで出ていて、今度5作目(スピンオフ)が発表されるらしい。サブタイトルを並べると、「エル・ドラドの秘宝」「黄金刀と消えた船団」「砂漠に眠るアトランティス」「海賊王と最後の秘宝」と、まあコテっこての「ザ・冒険ロマン」みたいな感じ。変な小細工はなしで、古き良き冒険アドベンチャーを、ゲームテクノロジーで究極の臨場感で持って再現します、みたいな姿勢が貫徹している。僕が実際にプレイしたのは3作目だけ(他はゲーム実況。。)だけど、CMに『インディージョーンズ』のハリソンフォードが出てきて「ゲームに嫉妬するなんて」という名言を残したのは記憶に新しくはないものの、印象深かった。

 で、毎度の重苦しいテーマに無理やり繋げるわけですが。主人公の名前はネイサン・ドレイク(通称ネイト)。そう、ドレイク。かのフランシス・ドレーク卿の子孫という設定なのです。フランシス・ドレークと言えば言うまでもなく、エリザベス女王お墨付きの海賊王にして、事実上の英国海軍将校のような存在だった人物。そのネイトが、お宝を求めてやれ南米、チベット、アラビア、果てはマダカスカルまで縦横無尽に駆け巡り、お宝をゲットはできないものの、いい感じにエンドを迎えてまた旅に出る、これを繰り返す。その、「何があるかわからない、危険もあるだろう、けどトレジャーハンターの血が騒ぐんだぜ!」みたいな姿勢って、欧米、ひいては資本主義を駆り立ててきたロジックそのものだな、と。大体の場合、いく先々で現地人とか巻き添いにしながらドンパチして。現地人の気持ちになれよ、とは言わないけどさ。

 別に批判したいわけじゃない。それは自己矛盾というものだ、だって三大好きなゲームだから。あるいは冷静になると、僕自身は「ロマン」という芳香剤にしてやられているのかもしれない。植民地主義絶頂の19世紀、それは「旅行」「冒険」「海外ロマン」と言った言葉がやはり出した時期と一致するのは決して偶然ではない。

 ソースは明記できないので噂程度だが、宮崎駿は、欧米のこうした姿勢を批判するときに、NASAを引き合いに出したという。なぜ宇宙を目指すのか。それは新しい、「フロンティア」を開拓することにとりつかれているからだ。その姿勢は昔から変わっちゃいない。そしてそれはけしからん。すでにある土地を、人々をないがしろにして外ばっかり見ている。そんなことする前に、サハラ砂漠を人が住めるようにしてみろよ、と。賛否あるだろうが、鋭いと思う。特に、フロンティアの消滅、「成長」の不可能性が明らかな今、足元の土地、人々に目を向けろというのは箴言だろう。

 

 と、うるさい老人みたいなことを言ってしまったが、アンチャーテッドのロマン演出作用は素晴らしい。結局ね。