core preferenceと心の安定

「なんか好きな雰囲気だな」と感じる色彩、風景、世界観、写真は、人によって収斂してくると思う。最近インスタを再稼働させて改めてそう思った。とりとめもなく「いいね」していった写真を後で振り返ると、同じパターンにまとまっているのだ。僕の場合、革製品、アウトドア(焚火)、自転車、クラシックカー、帆船といった類になっている。この「パターン」を言葉にできないものか、そう思い始めて早数年が経つ。

 一つの結論は、「自然、クラフト、歴史」というもの。歴史は範囲があまりに広いが、フェルナン・ブローデルからマッキンダー、パラグカンナがそうであるように、地理と人間の関係性に焦点を当てた歴史の語りが特に好きだ。ある意味、「自然とクラフト(=人の手、工学体系)が歴史を造る」という考えとも言える。このブログでもしつこく言及しているエネルギー論、文明論、地政学は、まさにこうした興味の表れということになる。

 この三点セットを嗜好の最大公約数あるいは「core preference」と捉えると、自分の感情がとてもスッキリしてくる。いわば、コアから派生して、「これも興味あるよね?」と自分に問いかけることができ、趣味や興味の対象がどんどん広がるのだ。例えば「クラフト」という文脈を派生させて、「楽器」に至り、すでにウクレレをポロポロ弾いている。昔ピアノをやっていたので音楽には全く無縁ではなかったが、こういう内省をしなかったらわざわざ買おうとも思わなかったと思う。次はアコギ、クラシックギターも狙っている。あるいは「自然」。すでにサイクリングを趣味としているが、多分サーフィンやセーリングカヤック、登山なんかもハマると思う。もう一つの「歴史」について、ブログを始めたのはまさにこの点に由来する。仕事がエネルギー関連なので本業もここから派生しているが、自分の言葉で歴史文明を語りたい、そういう衝動で始めたのがこのブログだった。

 「自分はこれが好き」というのをはっきり言語化して持っていること真の意義は、上で述べたように趣味が広がることでは多分なくて、もっとシリアスなものだ。いわば人格の幹になるものだと思う。まず評価の尺度において他人に翻弄されずに済む。評価軸を他人に委ねると、自己肯定感が他者評価に依存するようになり、自分の中身がどんどん希薄化する。常にSNSで自分を着飾り、他者より「充実していそう」と見せることが目的になってしまう。それはそれでいいのだが、その他者は非常に無責任なので、自分の幸せを預けるには少々頼りないと僕は思う。

 次に、自分の好きなものがはっきりしている人は、心にゆとりができ、他人をリスペクトできるようになると思う。例えば、僕は今靴磨きにはまっているわけだが、インスタでピッカピカに鏡面磨きする人を見ると、弟子入りしたいと思うほどである。これが、自分の嗜好が曖昧で、「なんかカッコ良さげ」に見えることしか考えない人は、自分よりかっこよさげな人をリスペクトする余裕がない。それは自分の幸福を減少させるからだ。つまり他者との関係性において余裕がないのである。人をリスペクトできる人は、その人自身もリスペクトされやすい。心のゆとりが豊かな人間関係を築くのだ。

 ちなみに、好きなものを否定されて怒る人がいるが、僕は、そういう人は本当にそれが好きなわけではないのでは、と感じる。本当に好きであれば、その良さがわからない人を憐れみ宣教しようとはしても、怒るはずがない。怒るのは、それが好きであることがなんかカッコ良さげだと思っていたのに、実はそうではない、お前は全然カッコよくないぞという相手からの宣戦布告に対する衝動反応だろう。坂バカサイクリストが、「好きでそんな苦行するなんて、へんな人だね〜暇だね〜」とdisられた時に浮かべる、あのアンニュイな表情、「君には、この悦びがわからねぇだろうな〜」という顔にこそ、「好き」の本質が表れているのだ。

 自分のcore preferenceをしっかり捉えれば、心は大地に根を下ろしたがごとく安定する。2018年、coreをさらに固めつつ、色々新しいことにもチャレンジしたいなー。