『ホモ・デウス』を読んで考えた色々

 ユヴァル・ノア・ハラリの新作『ホモ・デウス』を読んだ。前作『サピエンス全史』も非常に面白かったけど、こちらも劣らず刺激的。今作はテクノロジー、特に人工知能生命科学の進歩による近未来の思想的革命について考察しているのだが、その詳細には立ち入らず、彼が考える文明観について自分なりに咀嚼したい。

 前作で強調されていたのは、人類を特別たらしめる能力は「虚構創出力」ということだった。国家や宗教、貨幣といった抽象概念は全て実体がないのに、一定の構成員は皆それらを前提として協力できる。動物も協力はできるが直接コミュニケーションできる範囲でしか不可能だ。一方人類は虚構を通じて見ず知らずの他人と協力できる。だからここまで圧倒的になれたというわけだ。

 この考えに触発されて、僕なりの文明観を作ってみた。それは思想ー制度ー技術のトライアングルである。思想というのは幅広く、人権のような普遍的概念、宗教、国益地政学的利益や経済利益)など、要は人類が行動するときの「目的」に据えられる理念を指す。制度というのはその目的に即して形成される各種の社会的枠組み、例えば法律制度が代表例である。技術はこれら抽象的な「虚構」と「現実」をつなぐものであって、いわゆる財の生産・流通を可能たらしめるノウハウの総体である。これらは互いに影響しあっていて、一方通行ではない。「富国強兵」という思想が経済促進政策という制度を形成し、その中で各種の技術革新が生まれる、といったストーリーもあれば、人工知能のような技術革新が思想や制度に変化を促すケースもある。21世紀最大の地政学的イベントとも言われる北米シェール革命も、資源生産に関わる技術革新が米国、ひいては国際関係におけるダイナミズムという「虚構」に作用し、原油輸出解禁という制度的地殻変動も引き起こした。(ある意味、「制度」は思想と技術を媒介するに過ぎないから、トライアングルではなく両輪と捉えても良いかもしれない)

 世の中が大きく動くときは、思想と技術のギアが噛み合って、両者の間に正のフィードバックループが働いているはずだ。15世紀以降の大航海時代は「スペイン・ポルトガルの経済的・地政学的利益追及」「カトリックの世界展開」という強力な「虚構」のドライブと、中世より蓄積されていた造船及び航海に関するイノベーションが噛み合った。

 僕のライフテーマである「海とエネルギーから考える文明論」という文脈でこの構造を見てみる。「海」の分野に存在する強力な思想は「地政学」と「環境」だろう。エネルギーでは「成長」と「環境」、ちょこっと「地政学」だろうか。結局のところ、「国益」という個別的な価値と「環境」という普遍的な価値の相克がそこにはありそうだ。技術でいえば、伝統的造船業に加え先端的な材料工学、そしてロボティクスと人工知能の波が押し寄せている。

 思想を掲げる「国家」や「NGO」、技術を提供する「エネルギー企業」「IT企業」といった、4つのプレイヤーが入り乱れる世界が見えてくる。マトリクスで整理するならば、「国家×エネルギー」は伝統的な石油ガス等開発事業が、「国家×IT」は海に限ればスマート漁業、海洋モニタリングや海底ケーブルの管理、「NGO×エネルギー」は小規模な海洋再生可能エネルギー事業、そすて「NGO×IT」は仮想通貨を用いた洋上都市経済圏プロジェクトのような、シリコンバレー長者のお遊び感が少しあるdream projectといったところだろうか。

 現代社会においてNGOのような非政府組織は確かに影響力を持つが国家には及ばない。資源動員力において主権国家の力は相当に強い。だから海洋開発はほとんどが国家主導の石油開発プロジェクトなのだ。その意味で中国の海洋政策は強力だと思う。産業も自在にコントロールできるから、思想と技術を両輪で回すことができ、「国益」をフルセットで追求できる。メタハイの技術開発も日本より先に成功させるだろう。「掘削リグ」は形を変えた空母なのだ。技術を手にした中国は「新時代の空母」を続々と投入し沿海域を文字通り内海化するに違いない。その時は、「環境保全」「責任ある海洋開発」などといった思想が喧伝され国益の野心を覆い隠すだろう。

 僕は地政学という「虚構」からは一旦距離を取って「文明維持KPIとしてのEnergy Return on Investment」という「虚構」を信じている。その観点では、例えば中国が内海化した南シナ海で洋上原発を実用化し技術水準をあげたとしたら、それが原発のリスクを最小化し高品質エネルギーの安定供給を実現するなら、まさに「海×エネルギーによる文明維持」というライフテーマに合致するわけで、自分としてはそれを否定する理由もない。(もちろん中国の進出による地政学的脅威を受けている日本国民としての反感や不安感はある。)

 まあ、結局個人が信奉する「虚構」も多種多様、究極的には皆等しく「虚無」なのだからそこで争っても仕方ないのかもしれない。とはいえそうやって人類は歴史を刻んできた。世界史が面白いのはそういうことだ。