『人生を〈半分〉降りる』で解毒されました、というお話

中島義道さんの本を読んだ。内容は実際に読んでもらうとして、これを読んで感じたことを書き殴りたい。(と思わせるような面白い本でした)

 

公共的なことに関わる時間なんてなるべく少なくして、自省せよ、自分の人生の意味を考えよ、という感じの内容だと思うのだが、僕は割と常々こういうことを考えていて、時々ノイローゼ的になったりしている。で、「こうだ!!」とひらめく瞬間が定期的にあって、ノートに書き殴り、翌日も翌々日も反芻していると、「なんか違う」という気がしてきて、また堂々巡り・・こんなことを繰り返しているから、中島さんの主張を聞いて、「ああこれでいいんだ」みたいな安堵を感じた。

 本の内容とは全く関係ないのだが、これを昨日読んで、やっぱりビビッときて、今日一日中考えたわけですよ。で、人生ってやっぱり自分の認識がすべてだなーと。

 自分語りで大変恐縮だが、僕は中堅進学校で成績トップを取り続けて、自尊心が高まって、いい大学に入るところまで順調にきたのだが、周囲の友人のメジャーな進路である国家公務員という道を選択する気が起きなかったわけですね。もう何というか受験で燃え尽きてしまって今から「受験勉強」なんて死んでも嫌だった。(世の秀才というのは凄くて、こういう「試験」を息をするように軽々こなしていくのだった・・僕はガリ勉、量でカバーするタイプだったから、もう燃料切れだったのだ。大学受験で燃え尽きる程度だから、まあ、そこまでと言ってしまえばそこまでだ。)だから民間就職ということになって、ここら辺からすでにそうだったと思うのだが、やっぱり何かをこじらせていたな、と。外交官とかにちょっと憧れがあったから、そちらが「正」で、自分は脇道なような、あるいは向こうが「陽」でこっちは「陰」みたいな。でもこれを絶対に認めたくない、そういう自尊心というか意地がある。燃料切れで勉強したくなかった、なんてカッコ悪いし、いや、もっというと、「勉強すればそんなん余裕でなれるよ」みたいな超空虚な見栄すら張っていた。拾ってもらえた会社は良いところだし、全く不満なく愉快な日々を送っているのだが、それでも、ふとした時に、例えば高校・大学の同窓会なんかに出て皆が権力の中枢で活躍しているのを見ると、このコンプレックスが湧いて出てくる、それが辛い。「なんだ、ただの敵前逃亡して後悔してるだけのイタイ人じゃん」と言われればYes。そうなんですね。

 だけど、こういう「モヤモヤした苦しさ」が人を哲人たらしめるんですねぇ。真剣に、いやもう本当に真剣に、この辛さの正体と向き合い続けて、ようやく解毒に成功しました、というお話です。

 思うに僕の苦しみは二面あった。一つは「善」、今一つは「承認欲求」。善について、僕は中二病をこじらせ続けていたので、どうも世の中に絶対的な正義なり、それに準ずるものがあって、それを追い求めるのが高尚である、と本気で信じていた。外交官がかっこいいと思っていたのは「平和」がその善の匂いを醸し出していたからですね。(まあ、「平和」だけが善であるわけもないのですが、その議論の荒さはご愛嬌で)そういう高尚な目標のために尽力するのは善い、尊い、こう思ったわけです。だから、燃料不足というか実力不足でこの善に奉仕できないとなれば、「なんだ自分は尊くない、しょぼくさい、しがない一市民で終わるのか・・・」とそれはもう強烈な劣等感と絶望感に苛まれたわけです。

 もう一つはなんてことはなくて、承認欲求、マズローで言う所の四番目ですかね。富とか地位とか権力とか、そういうわかりやすい「すごさ」です。周囲が面白いくらいにこういう「すごい」ところに羽ばたいていくので、どうもこう、自分がしょぼくさく見える。そういう思いは正直あったわけです。

 どういう形で解毒したか、なんですが、一つ目の「善」は割と複雑なので、二つ目から。承認欲求って誰でも持ってますよね。ちやほやされたら気持ち良い。でも、「そんなものはいらない」と言ってしまえばそれでおしまい。成功者は「永遠に成功しないといけない」、ということに気づくと、なんだかもうモルモットみたいじゃないか、と。持っているものは失いたくないという心理は誰でもあるので、一度「大衆承認」の味をしめると、失いたくないあまり無限の競争を強いられるわけです。そして、勝利の度、失うものは大きくなっていくという、「欲求の複利」とでもいうべき、悪魔性がここにはある。勝ち続けられる人はいいんです。勝ち続けて下さい。レースを続けられないという不安があるなら、最初からレースに参加する必要などない。大衆承認なんていうのは一過性でいい加減、それに翻弄されるなんて時間の無駄じゃないですか、と。承認欲求で大事なのはマズローでいう三番目。家族とか身近な共同体にしっかり貢献して承認してもらえば十分ではないでしょうか。と、いう形で割とすんなり解毒できています。

 大変だった(というか今でも完全には解毒されきっていないかも)のは善の方ですね。なんたってこれはもう哲学論争ですから、何を読んでも答えは書いていない。基本的な問いは、公共善(なのか絶対善なのか、絶対正義なのか、専門家じゃないので言葉はいい加減です。とりあえず、数多ある善のアイデアに共通するもの、というイメージ)はあるか、ということ。あるならば、それに奉仕するのが正しいし、奉仕しないのは(相対的には)正しくない。そして、これが大事なのだが、もし公共善があるなら、私はそれに奉仕したい、という思いがある。ここまでが前提。

 政治哲学の本を読むと、人権が正義、というのが割とスタート地点として共有されていると思っていて、基本的人権からスタートすれば、理想とされる政治体制もある程度は似たようなスタイルに収斂される。独裁はだめ。自由が抑圧されるから。民主主義はいい。問題は政府の大きさ。リバタリアニズム最小国家主義、古典的自由主義福祉国家新自由主義。はたまたコミュニタリアニズム?なんか色々あるな。

 だけどそもそも人権って古代からあったんだっけ?中世は神がいたよな。神が死んで、人間中心主義になった、とかいう説も読んだことがあるぞ。そういや、今関心のある石油減耗。エネルギー収支が下がって文明が享受できるエネルギー余剰が減れば、経済のパイは減少し、否応なしにみな貧しくなって、「人権」が空虚になるんじゃないの?それでも「人権」が絶対正義です、と主張するのだろうか。古い時代、それこそ狩猟採集の原始的共同体に人権はあっただろうか。毎日が生きるか死ぬか、そこにあったのは相互扶助であって、現代的意味での人権は多分ないのではなかろうか。すべて人間の筋肉と自然エネルギーで駆動された中世、そこにもやはり「人権」はないだろう。それだけの余剰が社会になかったのだと思う。それぞれの時代の姿というのがあって、その中で人はうまく生き抜くために神話を作り共有する。そうやって人類は生きてきたのでしょう。であれば今共有されるお題目だって、時代と場所が変われば移りゆくもの。そんな気がするわけです。

 「戦争と平和」だって同じ。僕は漠然と戦争は悪で平和は善、と、なんとなく思っていたけども、本当ですか?フランス人はフランス革命後の戦争を悪だと思っていますか。No。戊辰戦争は悪でしたか。No(だよね?)。独裁のもともたらされる「平和」は善ですか。(もちろんYesという答えがあっても良い。だけどNoという答えも同様に期待できる)。地獄的平和からの脱出を望む人からすれば流血なんてなんのその。聖戦という言葉もあります。いやいや、確かに正義をめぐる争いは果てがなく、相手の殲滅まで続くから、そういう理念は棚上げして、純粋に力の関係として国家関係を捉え、対立に対症療法的に対峙していく態度もある、という声もある。

 これはいわゆるリアリズムであるが、リアリズムの立場は、「国家」という空間を、とりあえず守るというものである。その内政がいかなるものであろうと、そこは一旦置いておいて、とにかく、その殻を守る、国内において正義が実現されるか否かは、国内の政治次第です、という立場だと思う。一見、最小国家論を唱えたノージックのいう「ユートピアのための枠」としての「国家」という感じで、悪くないように見える。善の形は人それぞれだから、公共という場では、みんなの善の最大公約数的に、公共善を定義できるのではないか。だがもう少し突っ込んでみよう。

 外的(この場合外国)からの攻撃を防ぎ国境を守れば、理論上、国民は邪魔されず善を追求できる。しかし、この「国境」にどんな正当性があるのだろうか。苛斂誅求に苦しむある地域の民が、歴史的につながりの深い隣国への併合を望んだ時、どうなるのだろうか。「国境」を守るリアリズムに沿えば、「そんなこと言うな。現状はもちろん維持する」と言う態度を取るほかないと思うが、これは正義か。あるいはどうしようもない人権侵害的独裁が起きている国家の外交官は、正義の名のもとで、国境を守っていると誇りを持って主張できるだろうか。リアリストが「正義をめぐる争いの先には殲滅戦しかない。それは悲劇である。それであれば現状を固定して、いつか、誰かが解決するのを祈ろう」と主張するとき、少なくとも、「正義をめぐる殲滅戦」よりも「現状」の方が倫理的にベターであるという価値判断をしていると感じる。外国の外交官が、人類最悪級の独裁者による人権侵害を目の前にしてもなお、それを倒す戦いが悲惨を極めるであろうという理由で、「正義よりも現状」を優先する姿勢が「絶対正義」ではなさそうである。

 この問題は実は根が深くて、現代の主権国家体制に対する挑戦でもある。A国とB国がいて、地政学的に対立している。A国は軍事抑止力を利かすべく同国内の辺境に位置する島に基地を建設しようと目論む。しかしその辺境は歴史的にはA,B両国の交易中継地として栄え、帰属意識もどちらかに完全に偏っているわけではない。島民は両方の国と仲良くしたいと言いながら、我々の穏やかな暮らしを破壊しないでくれと言う。A国政府は急速に台頭するB国の脅威に対応するには基地が必要だと引かない。この時、「抑止力による平和」のために島民が犠牲になることはどう正当化されるか。A国の国境を守ることが直ちに善とは言えない。その国境が必然ではないからである。

 もう善の問題はクリアになっている。つまり国防も秩序も公共善ではない。それらが覆い尽くすところの領域、それらが奉仕するところの領域それ自体が「自然」ではないからだ。国境が恣意的に、あるいは過去の暴力的闘争の末に定められているところに限界がある。

 そんなこと言ったって警察や司法や国防がないと困るじゃないか、と言うと、そうです。困ります。だから必要ではある。しかし「善」ではない。必要だから需要があって、その仕事がしたい人がいて、したい人がすれば良い。もうそれは、善とか高尚さとかではなく、個人の趣味、美意識の問題なのだ。これが僕の第一の悩みの解毒作用です。政治エリート、公共エリートが「善」を担っているわけではない。そこに偽装された善はあるが絶対的なものなど有りようがなく、歴史の積み重ね、偶然で「そういうことになっている」仕組みが横たわっていて、世界が動いていくために仕組みを動かす人が必要で、それが政治家だったり公務員であったりする、という話。

 だから結局のところ、絶対善、公共善、正義は何かみたいな話は、公共的な次元では決まりようがないのだと思う。色々な人がもっともらしいことを言って論戦を貼って、たまに暴力や陰謀が混じって、その積み重ねで「そういうことになる」というプロセスでしかない。その中で自分が何を信じて、何に奉仕して、というのは全く善の問題とは無関係に、美意識でしかない。だから生きることは、どういう美意識を持つか、誰に承認されたいのか、この二点に尽きるのではないか、そう思うのです。これが今時点の気持ち。駄文恐縮!