The party in the high castle

遥かなる高みに聳える、アタラクシアの砦を目指して

善く生きるとは

 人生の目的は何か。幸福になること。では幸福とは何か。善く生きること。善く生きるとは何か。足るを知り、優しさと誠実さを保って生きること。優しさとは何か。他人の幸福を願うこと。誠実さとは何か。責任を全うすること。

 自分の幸福が、善く生きる即ち他人の幸福を願い、同時に、責任を最後まで全うすること、と主張するのは私の勝手であり批判される筋合いはない。一方、私の幸福の条件になっている「他人の幸福を願う」時のその「幸福」とはどんな内容だろうか。それを私が勝手に決めて良いのだろうか。幸福とは何か、というのは、東西の古代哲学者は好んで探求したようであるが、近代以降は下火のようである。化石燃料時代即ち物質主義にあっては、「幸福=快楽」が無条件の前提とされてきたように見える。功利主義自由主義共同体主義、結局全て個人の快楽や欲望の満足度最大化を志向している。幸福とは、というのは時代遅れの宗教家か、エモいポップ・ミュージックでしか聞かれなくなった。しかし、この問いこそが、私にとっては最大級に重要である。

 細かい議論をフォローする余裕はないので、ひとまず、幸福=善とした上で、「幸福=快楽説」と「幸福=魂説」の雑な二分法で話を進めたい。前者は古代ギリシャにおいてはエピクロス派が主張した幸福論に近く、また、現代社会の基盤をなす思想といって差し支えないと思われる。後者はストア派からキリスト教、その他多くの宗教が考えるところの、魂の陶冶、徳の達成こそが善であり幸福だという立場としておく。

 快楽説と魂説で決定的に異なる点は、最大公約的な幸福を観念できるか否かではないか。快楽説ではそれが可能であり、魂説では不可能だと私は感じている。快楽説に立てば、すぐに思いつくのは「肉体の生存・健康は万人共通の快楽=万人の公共善」という論理である。確かに、快楽(不快の欠如と読み替えても良い)が幸福・善であるというとき、肉体的拷問をされている人は決して幸福ではないだろう。病気や痛み、具体的には戦争・飢饉・疫病といった肉体的災厄から逃れることは、疑いようのない公共善であるといっても違和感はないし、事実、近代国家における公共政策が等しく志向するのはこういった「公益」であろう。一方魂説に立てば、こうはいかない。ストア派の哲学者が述べるように、善とは陶冶された精神の状態を言うのであって、外的条件によって左右されない。つまり、戦争・飢饉・疫病の最中にあっても、人間は善を実現しうるのであり、したがって幸福でいられる、ということになろう。また、個々人の精神は全く独立・固有のものであるから、肉体的快楽のような共通性、最大公約的善は観念し得ない。そこでありうる他者貢献とは、布教に代表される「救済」である。

 魂説を採用したとき、私の幸福条件である他者への優しさは具体的にいかに発露・実現されるだろうか。他人の幸福とはその人の精神状況次第であって、私が他人を幸福にするには、精神状況そのものに作用しないといけない。これは大変なことである。少なくとも、普通我々が「仕事」と呼ぶような、アノニムな多数者と触れ合うようないい加減なやり方では到底実現できまい。本気で愛する人、家族のような近しい人間に対して、全力でぶつかり、もがきながら、辛うじて相手の幸せを構成できるか否か、それくらいの大仕事である。もちろん、相手の魂の陶冶に貢献するのであるから、自分自身の魂はピカピカに磨かれ、日々のあらゆる行動に浸透していないといけない。生き様によって善を示すのである。これはとんでもない大事業だろう。

 快楽説においてはどうだろうか。この説に立てば、確かに、万人に妥当する公共善を定義しうるから、それに献身するのが「優しさ」の発露ということになろうか。公共衛生の従事者、例えば国境なき医師団のような人々は、なるほど「善人」のオーラを纏っているではないか!

 魂説、快楽説どちらが正しいかはわからないが、あえて、快楽説批判を行ってみる。批判の第1点目は、「ある欲求を満たして快楽を実現しても、次の欲求が湧き出る。永遠に満たされないのであって、つまり永遠に不幸でしかない」というもの。マズロー欲求段階説が言うように、肉体的欲求が満たされれば精神的欲求が前面に出る。それは満たされることなく永遠に肥大する。物質的には極めて恵まれた現代社会でどうして自殺者が出るのか。欲望の永久サイクルという事実に照らせば、欲望満足=快楽が幸福であるというのは、実現しない蜃気楼を追うようなものであり、筋が悪い。

 批判の第2点目。これはかなり主観的になるが、そもそも、快楽=善だろうか。私は最初に主張したように、善とは優しさと誠実さ、いわゆる義理人情だと今は思っている。大衆からチヤホヤされる名誉や、人を動かす権力や、権勢をひけらかす富、それらを獲得することで得られる精神的満足(快楽)などは、善とは遠いと感じている。これは正直ロジックではなくて、直感、感性、美意識の類だと思う。ましなロジックが思いついたら、その時また書きたい。

 批判の最後は、現実性について。各人が快楽を最大化するとき、物理的には、エネルギーが消費される。エネルギーや資源は有限であり、無限に成長することは許されない。本ブログでも度々言及している通り、エネルギー収支比は減少に転じており、早晩快楽の制限を余儀無くされる局面に入るだろう。そんな時、幸福=快楽=善、などという信念を持っていて、やっていけるだろうか?むしろ、足るを知り、各々が精神の掘り下げだけによって幸福になれるというのは、究極の「エコ」ではないか・・・

 念の為、批判に対する反論も考えておこう。第一批判については、エピクロスがそう主張したように、「肉体と精神の安定」を善=幸福とすれば良いではないか、という考えがありうる。即ち、肉体的健康は大事。同時に、精神の陶冶(欲望の制限)も大事。両輪なのだ、と。これに対しては魂説から以下の再反論が可能だろう。つまり、「本当に肉体的健康は大事か?」と。精神の陶冶即ち禁欲の重要性について合意したならば、どうして、精神的禁欲は可能なのに肉体的禁欲は不可能だと考えるのか。強力な精神の持ち主は、難病の激痛の中でさえ、その魂を躍動させ、美しい生命を燃やす。これ即ち善であり、本人は幸福である。この事実だけで、肉体的条件が善・幸福と無関係であることがわかるのではないか。一度幸福の中身に「欲望のコントロール」という要素を認めてしまえば、行き着く先は「幸福は魂の中にのみ存する。それはいかなる暴力によっても砕くことはできない」という、魂説の主張に行き着くであろう。「肉体と魂のバランス」という主張は一見賢いが、中途半端に禁欲に合意することで、結局魂説の領域に巻き取られている。

 結局のところ、私にとっての暫定的な善・幸福は、まず第一に己の精神を磨き、「足るを知り」ながらも優しさと誠実さを貫くこと。優しさと誠実さの具体像は、自身の「善き生き様」を周囲に示すことで、一定の善のあり方を例示すること。になるかなーと。とりあえず、今の考え。