善く生きるとは 4

 自分の幸福と他人の幸福を目指す、要は「みんな幸せに」生きる世界を究極の理想としてそれに向かう線路を歩むような生き方、が善い生き方なのだと思うのだが、先日来掲げている「誰も不幸にしない」について、何故そうなのか、を考えてみた。

 悪人は幸福になる権利を欠くのであって、ボコられても良いとする考えはむしろ一般的だと思う。ここで生じる問題の一つ目は悪とは何かという定義。一つの仮定義として「他人の不幸を容認するないし積極的に志向する態度を悪」とするならば、「悪人はボコられても良い=悪人は不幸で良い」とする「善人」の態度はそれ自体悪であって、善人すなわち悪人というパラドクスに嵌る。「「善人」の不幸を容認するないし積極的に志向する態度を悪」と定義で妥協すれば、循環参照であり無効な定義となる。なかなか難しい。宗教においては教義において悪が定義されていよう。しかしその定義や解釈は時代や地域によって微妙に異なる。これは善の議論は実体のない抽象概念である以上不可避と思われる。要は、善悪の線引きは非常に曖昧で万人の合意を得るのは困難であることだけはわかる。

 で、上記の前提を踏まえて、「悪をボコって良いのか」という問いに戻ろう。ボコって良いという前提に立つと生じるのは闘争である。異なる教義のぶつかり合いは宗教戦争という明らかに「悪い」(これは直感)事態につながる。この事態を避けるには前提を否定するほかない。すなわち、(その人が考える)悪すらも赦さねばならない。寛容の勧めがここにおいて現れる。(もちろん、この論証で妥協している「宗教戦争は悪」という直感を否定するというやり方もある。イスラームの聖戦に対する態度を見ると、こんな雰囲気を感じる。それもロジカルではあるけど、私の直感には少し合わないかなと。)

 ということで、やはり「誰も(文字通り。極悪人も含めて)不幸にしてはならない」は善の条件として有効に成立するのではないだろうか。

 「私」と他者A、Bの三人がいるとしよう。「私」はストア派的アタラクシアを幸福と据えるがAは名声と名誉を至高価値とし、Bは富及び肉体的快楽を至高価値とする人間であるとする。三者の「幸福」が相容れないとき「私」に何ができるだろうか。(例えば三人で事業を営んでいて、見知らぬ誰かの不幸を招くであろうが我々に莫大な富をもたらすアイデアを採用するか否かで論争しているとして。)

 「自分を幸福にし、誰も不幸にしない限りにおいて誰かを幸福にする」という戒律を厳密に守ろうとすれば、唯一できるのは「説得」ではないだろうか。今、検討されているのは少々グレーだが儲かる話を採用するか否かである。グレーであるというのは「誰も不幸にしない」に反するから、それを行えば「私」の幸福が傷つくのみならず名誉を重んじるBの幸福も傷つく。しかし儲かるのでAは幸福になる。そこで「私」は自分自身の戒律をAに説く。(善く生きるとは、誰も不幸にしないこと云々カンヌン。的な)それでAが心底納得すれば、全員幸福になる。(と、当たり前のことであるが・・)

 もちろんAは納得しないかもしれない。しかし納得するかもしれないのであり、納得した限りにおいて「私」の戒律は全て満たされ、「私の善さ」が証明される。説得に失敗すれば、「私」は悪に留まる。

 近現代的文脈での「公共空間」において同様のことが可能だろうか。パワー(暴力、富、名声その他)を行使して一定の価値観の受容を迫る態度は善いとは思わない。(これも、善いとする考えがあることはわかるが、私の直感と相容れない)それは「説得」ではなく「強制」であって、説得されない状況での強制は相手を不幸にしていると考えるからである。すると「善さ」は一切の強制力を持たずして他者と魂の対話を根気よく続けて説得する他にない。この説得は、「誰も不幸にすることなくその場の幸福を増やす」という意味において、「パレート改善」と言えるだろう。

 よってまとめると、私の考える善き生とは、「魂の対話と説得による半径5Mのパレート改善」ということになろう。(もちろん私の徳が増すにつれ、半径は拡大するだろう。とはいえ、半径6000キロまで拡張する自信は全く持てないが。。)

 まずは自分自身、家族や友人、職場という「対面の人間関係」において、善くあらんとして地道な努力を繰り返す他ない。