パイを増やすのは善いのか

  物質的快楽の究極的源泉は石油に代表される一次エネルギーだと思う。エネルギーの化身として財やサービスが存在し、人々の幸福を構成している。食事も教育も医療も娯楽も安全安心(インフラや軍事力)も全てエネルギーの化身である。

 農耕社会成立以来の歴史のいたずらによりエネルギー余剰へのアクセスは偏在している。つまり世の中は格差であふれている。個人間、都市間、国家間あらゆる所に格差が見て取れる。その格差をどう捉え、資源配分につきどういう理想を定義しまた行動するかは、人間の認知・思想次第であり、その配分プロセスが政治だと思う。エネルギー余剰すなわち人類が享受できる資源量を一定とすると、物理的側面で見れば、資源配分はゼロサムゲームである。消費しきれない食料やガラクタを抱える人間がいる一方で餓死寸前の人間がいる時、それはエネルギー余剰へのアクセス偏在を示している。公権力が富者をして貧者への富移転を強制せしめるとすれば、富者の反感を買うことは明らかであり、こうした政策が無条件に善いとも言えない。(もちろん善いという意見もある)

 ところでエネルギー余剰の総量を増やすことは、「誰も不幸にせず誰かを幸福にする=パレート改善」になるのではないだろうか。もちろんここでの「幸福」は「物理的快楽」に限定されているけれども。パイの総量が増えれば富者は傷つかず貧者は幸福になる。エネルギー余剰の増加方法として二つ考えてみる。一つは資源採掘量の増大、もう一つは資源利用効率の改善である。

 資源採掘量を増やすのは一番手っ取り早いが環境汚染や気候変動、すなわち地球環境負荷という別問題が浮上してくる。これは採掘現場の周辺住民及び将来世代の物理的快楽と相反するため、「人類全体のために資源開発を推進する」と綺麗事を言っても、数においては少数であろうが誰かしらの物理的快楽を犠牲にしていることになる。

 では資源利用効率の向上はどうか。すでに地上に吸い上げられたエネルギーのうち無駄に捨てられているものの割合を下げるということであり、一見、その向上は誰も傷つけないように思える。具体例として、土地という限られた資源の利用効率を向上させた緑の革命を見てみよう。慢性的飢餓を強いられた人々のうち幾らかはこの革命により恩恵を受け最低限の肉体的幸福を確保するに至ったが、弊害もある。往々にして「効率化」は化石燃料依存・化学薬品依存・機械化・画一化・欧米化といった特徴を備えている。いわば副作用の強いステロイド剤である。伝統的農業は破壊され、地下水は枯渇し、殺虫剤で生態系は破壊される。これらは当初の目論見に反して物質的快楽を妨害するのみならず、現地に根付いた伝統的価値観という精神的苦痛ももたらしかねない。

 もう一つ、自動車の燃費向上を考える。燃費が上がれば単位あたり便益に必要なエネルギー量が減るので、エネルギー余剰は増加するはずである。ただし増加したエネルギーが貧者に移転することはない。エネルギーアクセスは貨幣と引き換えであるから、受益者たるユーザーが貧者に貨幣を移転することなくして、「パレート改善」は生じない。燃費向上の帰結は、節約したガソリン代を使って家族でお寿司を食べる(=追加エネルギー消費)、の類である。よってエネルギー利用効率の改善によってパレート改善を実現するという目論見の行き着く先は、「主たるエネルギー消費者たる富者から貧者に富をいかに移転させるか」という、古典的で答えのないアポリアである。別の例を出すなら、最先端のロジスティクスシステムでコストを極限まで削り「社会の流通効率を上げる」ことで利益を得るのはアマゾンであって、飢餓にあえぐアフリカの子供ではない。我々はアマゾンに、アフリカ支援を強制できるだろうか?もちろんそうして富を増加させた欧米企業がアフリカに投資することで、便益がトリクルダウンされるということもあり得る。ただし緑の革命と同様に、そうした「欧米化・機械化・画一化」により失われる価値もある。

 結局、資源供給量の増大や資源利用効率改善というのは近代化・西洋化とほぼ同義であり、物質的には圧倒的便益をもたらした一方で踏みにじってきた価値もある。また増大したエネルギー余剰は結局富者に集中する(格差拡大)。パイを増やす過程で犠牲になるものもあれば、増やしたところで結局配分が問題になる。