善く生きるとは 5

 「誰かを幸せにする」は分かりやすいが、「誰も不幸にしない」を徹底的に考えると行き詰まる。こうして快適な家に住みWifiを利用しながらパソコンを打っている時点で、大量の化石燃料エネルギーを消費しているし、このデバイス製造過程を通じてアフリカの児童労働や中国における有毒化学物質汚染に関与していることになる。「文明人」でいるだけで誰かの犠牲を強いているのである。

 「善く生きる」を追求する上で、3段階考えてみた。初期段階は「文明人」、次が「未開人」、最後が「死者」である。

 文明人でありながら善く生きるにはどうすればよいだろうか。文明がもたらす弊害を少しでも減らすよう努力することだろうか。例えば電子機器のサプライチェーンから児童労働や有毒物質の排出を減らすよう働きかける、あるいは石油生産における安全性を高めるよう努力する、新薬開発における非人道的な実験を根絶する、危険な核兵器を削減する、など。このように文明が撒き散らす毒素を浄化することは可能であり、そのために献身するのが正しいだろうか。しかし外側から「正義の味方」として当事者を声高に、かつ暴力的に非難するような立場にはなりたくない。そこにあるのはモラルハイグランドから相手を殴り倒す残虐性であり、私の追求する善さとはかけ離れている。文明を前提しているのだから、文明自体を批判するのは筋違い(しかもそれは多くの人を不愉快・不幸にするだろう)であって、むしろ文明を支えつつ、ESGのように産業界内部での思想転換、歩み寄りによって文明を解毒する、そういう可能性が探れるのではなかろうか。ちなみに私の考える善さとは「誰も不幸にしない」かつ「誰かを幸福にする」であるが、文明に身を置く場合、文明=相互依存システムなので誰かを幸せにしていることは疑いようがない(でなければ文明社会で賃金を得られない)ので考える必要がない。ひたすらに、犠牲を最小化することを考えるのが善い。

 そうはいっても文明は完全には解毒されない。つまり文明社会に生息する限りにおいて誰かの犠牲の上に立つ事になるのであって自分は悪であり続ける。ドラスティックな解脱を求めれば、脱文明化すなわち「未開人」になるほかない。グローバルサプライチェーンから離脱し、完全自給自足を実現する。ソローが『森の生活』で目指したのがこれだったのかは知らんが、そういうイメージ。その中で属する最小コミュニティに献身することが、「誰も不幸にせず、誰かの幸福に貢献する」という、善き生き方の実践になるのではないか。

 但し、最小共同体といえど他者と関わる限りにおいて、悪が生まれるリスクがある。自分の利益と他者の利益がどうしても相反し説得も合意も不可能であれば、どちらかは不幸になるほかないのであり、善くない。こうして、究極の善さの完成として「死」が出てくる。死ねば誰も犠牲にすることはない。しかし誰も幸せにできないではないか?ところが人間は死してなおその人を愛するものの魂にて生き続ける。それならば、肉体の存続すら必要ではない。善くあらんと生きた証が身近な誰かの脳裏に刻まれその人を鼓舞する限りにおいて、死者すら誰かの幸福を支えているのであり、「死」は善の完成を意味する。