善く生きるとは 6

 「誰も不幸にしない」を徹底しようとこの一週間過ごしてみたが、発狂しそうである。どう考えても普通に生きているだけで誰かを害しているし、まして石油開発などというビッグ・ビジネスに関与すれば否応無しに誰かの機嫌を損なっているだろう。

 そこで少し戒律に変更を加えてみたい。

 

「誰も害するな。但し自分の核心的利益(Critical Core: CC)を守るために必要であるときは、この限りでない」

 

 まあごく普通の、それこそ古今東西の掟に共通していそうな戒律なのだが。このポイントは「自分の命とか、人によっては信仰とか、とにかく大事なものを守るためなら、人を害しても仕方ないよね」という妥協である。怠惰と言われればそこまでだが、正気を保つために必須であると判断した。

 他者と共存すれば色々な摩擦があり、自分のCCが脅かされる瞬間はある。その時、この戒律に従うならば、人には反撃権(自衛権とでも言おうか。自然法みたいだね)が生じる。興味深い事に、近代国民国家における社会契約論は、この各人が保持する自衛権を政府に移譲して、政府が代理行使する、みたいな建てつけであると気づく。但し政治領域においてはそうでもない。例えば軍事的に優越する隣のA国との外交政策をめぐり、怖いから大人しく服従しようという人と、自国のプライドにかけて断固立ち向かうべきという人もいて、そういう政策がそれぞれのCCに直結するとき、政治的闘争は不可避である。現実的には選挙という方法を通じて多数決で決着がついてしまう。負けた方に救済はない。例えば宥和派(服従派)が買ったとき、強硬派のCCは侵害されているから、それを回復すべく他者を加害する権利が生じるが、それは国家に取り上げられ遂に行使されることもなくドブに捨てられるのである。これは可哀想ではあるが、宥和派も強硬派もそれぞれ正当なCCを巡って闘ったわけであり、その闘い自体は善いかはわからないが少なくとも悪くはない。強いていえば価値中立であろう。(ちなみに、各人のCCは保障されるべきなのにそうなっていないとき、様々な理由で理不尽に抑圧されるとき、法体系という制度の限界を打ち破るべく暴力に訴える=テロリズムが許されるか、というのは興味深い問題かと思う。)

 各人のCCが共通であれば、「誰のCCも犠牲にしない限りで、あらゆる人のCCを保障するよう努めるのが公共善」などと定義できようが、第一に人によりCCは異なり完全に把握するのが非現実的なので、もはや何もできない。仮に同じでも(例えば肉体的健康)、誰のCCも犠牲にせず、という条件はクリアが難しい。有名なトロリー問題も、一人を犠牲にして五人を救う、というのはこの戒律では正当化できない。ちょっと変えて、一人の手首骨折と引き換えに誰かの命を救えるとき、あなたはその人の手首を折るか、という問いも、私は慎重に考えるべきと思う。その人がピアニストで、手こそアイデンティティ、魂の全てという状況だとしたら、そう簡単に手出しはできまい。もし私が手出しするのを正当化するならば、それは死にかけているもう一人が持つ加害権を、私が代理行使するという整理になろうが、この「代理行使」を個人に許可してしまえば、私は世界中の「CCを危機にさらされた人々」が持つ膨大な「加害権」を代理行使することで、圧倒的暴力を放つことが許される事になってしまうが、これは直感に反する。(法的・社会契約論的には、それが許されるのは唯一政府、より厳密には「法体系」である)

 というわけで結局各人にCCがあって、どうしようもなく対立するときはもう相手を害すのは仕方ない、と。漁師がいて魚を捕まえて生きています。ここに魚の権利を主張する人間がいて漁業は魚の権利を侵害するのでやめてください、あなたが漁をする事で私のCCが侵害されます、という人が現れたとしよう。漁師は漁業で生計を立てているのでありその停止はCCに抵触する。是に於て両者は対立する。あとはバトルしてもらうほかない。そのバトルは価値中立である。同様に私は石油開発に従事して生計を立てていますからそれによってCCが侵害されるからやめてくださいと言われたとしたらその主張こそが私のCCを侵害するので闘争に至る。これは仕方ない。怠惰な態度かもしれない。どうだろうか。