善く生きるとは 7

 ここ一ヶ月くらい善く生きる事について徹底的に考える中でわかったことがある。善の理論の「正誤」判定は結局のところ「私」の直感に頼るほかない、ということである。トロリー問題じゃないが、どんな理論も、ある特定のシチュエーションにおいてその理論が指示するところの行為・選択が正しいかは、それをイメージして、「うん、そうするよね」と心の底から思えるか、という至極曖昧で利己的な判定しかできない。そして「直感」の中身は十人十色である。これが世の中に多くの「正義」が存在する理由であろう。

 この直感は多分DNAと幼少期の教育によって決まっていて、今更理性で矯正できるものでもないような気がする。では「善く生きる」とは結局のところ「直感」に従って生きるということなのか。それもちと違う気がする、少なくとも「理性」にも何らかの役割があるのではないか。

 状況を整理すると、確実にわかっていることは以下の事柄。

1:私には私の利益がある。(マズローの欲求段階的にいえば、生存、共同体所属、承認、他者貢献)

2:同様に他人にもその人の利益があると想定されるが、それが具体的に何であるかは究極的にはわからない。

3:社会で生きる以上他人と共存するほかなく、往々にして利害が衝突する。そのとき、自分と相手の利害をうま〜くバランスするのが「善」ではないか。

 

 3において利害のバランスを取るとき、必要なのは思いやり・想像力である。自分がこうしたら相手はどう思うだろうか、というのを、様々なシナリオを思い描きながら、理性と直感を総動員して考える、そういう姿勢が善ではないか。その結果、結局自分のエゴを優先して他人を害してしまうかもしれない。それは仕方ないかもしれないしそうでないかもしれなく、答えはないので、永遠に悩めばいいと思う。状況の微妙なニュアンスによって答えは変わるので、一般化して語れるほど単純じゃなさそうだ。

 

 ところで「人の役に立ちたい」というのは一見善く響くが突き詰めればエゴだと思う。誰かを喜ばすのは実際快感であり、良い人だと思われればまた気持ちいい。ほとんどの人間が本能的に持つ共同体感覚として、貢献欲求はあると思う。(まあ、他人はわからんのだけど。少なくとも私はそう感じる)あるいは本当は嫌だけど義務感で「善」をなそうとするとき、その動機は何か。善くありたいのはなぜか。「善くありたい」というのは欲望の表明に他ならない。その先に天国が待っているのかは知らんが、自分の理想像に近づきたいという意味でやはり利己心が根源にある。別に利己心だから悪い訳ではないのだが、そうやって他人・社会に働きかけることで実は誰かを不幸にしてないか、ということを、理性と直感を動員して絶えず検証せねばならない。ただし、結局判定は自分の直感任せなので、真実は絶対にわからないのだけど。

 

 などという綺麗事を言っても結局エゴイストであることからは逃れられない。他人を幸福にするためにあなたは死ね、と命じられても躊躇ってしまう(というか無理)のはその証拠だ。まさにマズローの欲求段階の通りで、肉体が健康で身近な共同体とうまくいっている限りにおいて、「人類への貢献」などという呑気なことを言えるのであって、大怪我をしたり難病になれば今日を生きることで精一杯なのだ。それを誰が責められよう。