善く生きるとは 8

 「善く生きること」を「幸福」と定義するとして、「善く生きるとは」何かをずっと考えている訳だけど、究極的には言葉の定義問題に帰着するのでは、という感じがしてきた。

 「善」の中身が全く不明な状態であることを明示するべく、「善」をあえてXと呼ぶことにする。Xの中身はわからないが、Xが備える性質・条件はいくつか言えることがある。すなわち、

 「Xの実現において、全人類は平等である」

 「Xの実現において、各人は自由である」

ということかと。これを真とするならば、対偶を取って、

 「全人類に平等に開かれていないものは、Xではない」

 「その実現において不自由を被る人がいるものは、Xではない」

もまた真であろう。

 

 「善」の中身を検討するにあたっては、これが手掛かりになりそうである。現代の公共哲学は、原則的に物理的快楽の実現を善と捉えているように思える。功利主義リベラリズム共同体主義と言った哲学教義の対立は富の配分をめぐる議論であって、富(究極的にはエネルギー余剰)自体に価値があることは同意しているようだ。こうした議論は上の命題によるテストに堪えうるだろうか。

 富あるいは物理的資源は有限であり、かつ偏在する。肥沃な大地・降り注ぐ日光・水源・油田、これらは地理的制約ゆえに平等には分布しない。それを人工的に均等配分する場合は追加エネルギーが必要であり、その配分者への富の集約なくしては実現できない。社会主義国家の中央政府が過度な権限集中と腐敗に満ちていたことがその証左であり、結局、富を人工的な中央に再配置したに過ぎない。つまり、物理的資源は全人類に平等に開かれてもおらず、かつ、その獲得においては不自由を被る人間が必ず出る。これが歴史の真実であろう。

 であれば、物理的資源配分は「善」の条件を満たさない。よって、「善」は物理的資源配分とは一切関係がないと言えるのではないか。貧困に生まれたり戦場に生まれるだけで「不幸」であり、豊かな人間は「幸福」であり、不幸な人間は恵みを乞う立場とされるのは、前者の尊厳が踏みにじられている。憐憫を垂れてもらって資源を分けてもらうというのは、幸福なあり方ではあるまい。では次の問いは、何が善の条件を満たすのか、である。

 答えは、ありきたりだが、各人の精神の中にあるということだろう。ストア哲学が主張するように、精神はいかなる暴力や困窮さえも侵すことのできない、各人の絶対的自由領域であり、かつ、人間としての思考機能を持つ限り、誰もが等しく持つものである。この点、大富豪もスラムの孤児も、善の実現という人間の究極的目標においては全く同等の地平に立っているのである。そして私が考えるに、これは人類の平等という点で望ましい。(これは善を物理的資源配分と紐づける立場からは出てこない前提であろう)

 物理的資源配分(この場合、「他人」を含むあらゆる外部環境)は確かに人の愉悦・苦悶(痛みや不快感)に作用するであろうが、それは「善」とは別の何かである。とはいえ、これで善が明確に定義できた訳ではない。各人の精神がいかなる状態であるとき、善いのかはまだわからない。神の教えに従い思考している状態なのか、ストア哲学に習いアタラクシア(不動心)を達成した状態なのか。しかしこれは各人の自由なのかもしれない。私は今のところ、不安や恐怖、悩みに満ちた状態ではなく、常に落ち着き、満ち足りていて、淡い幸福感を感じている精神状態を幸福と定義している。

 ところで各人の「善」が、各々が追求するところのその人の精神的状態であるとする場合、他者との関係はどう整理されるだろうか。いわゆる優しさや利他主義の中身は何になるのか。

 優しさが他者の幸福を願うことであるならば、それは他者の善の実現を願うことであるが、善の実現は徹底的に個人の精神的作業であるから、物理的資源配分を通して優しさの実現は不可能ということになる。さらに、仮に幸福を欲求充足と定義した場合でさえ、物理的資源配分によって充足されるのは肉体欲求のみであって、マズローに従えば、それが満足されるや否や精神的欲求が生まれることは周知であり、理性による抑制を発動しない限り人は永遠の欲求不満に苦しむ訳であるから、他者に富を分け与えることはマクロに見ればその人の幸福には繋がっていないのだと思う。いわば喉の渇きに苦しむ人に冷えたビールを与えるようなものだ。瞬間的に渇きは癒えるが、アルコールにより中長期では脱水されてしまう。

 一方、宣教師のように、精神的営為のガイドを示すことは、優しさの実現につながるかもしれない。ここで生じる最後の問いは、優しさは善に含まれるか、ということである。言い換えれば、理性の制御によって一切の利他心を捨て、周囲の状況と自分の精神状態(例えば虐殺のような悲劇)を完全に切り離し極限の不動心を実現したその人は、果たして善い人なのか、という問いである。

 直感的には、その人は冷徹な鬼であって、善くない。しかし、見ず知らずの土地で他人が苦しんでいることが明らかな現代において、そういう人の悲劇に心を痛めないからといって善くないと言われる筋合いもなさそうだ(これは後で少し検討)。また、共感感覚は個人差があり、一切の他者に共感を抱けない精神構造の人間は、それが生まれつきであっても善くないことになり、それは善の平等・自由原則に反する。つまり他者をどう思うか、どう関わるかは善とは関係ないのではないか。

 では他者を加害しても善は損なわれないのか。エピクロスなら、他者の加害は、それが「自分の」精神を掻き乱し不動心を脅かす限りにおいて悪、というかもしれない。つまり各人が持つ他者への共感感覚次第ということだ。いやしかし、各人の精神は理性により制御できるのであれば(肉体的苦痛においても幸福になれるというくらいであるから)、共感感覚もまた、理性によって拡張できるというべきではないか。そしてそれができるのであれば、拡張すべきなのではないか。つまり、本能的にはそう思わずとも、理性によって、アフリカで苦しむ子供を思って心を痛めるのが善いのではないか。

 一つの妥協的整理として、各人の生まれつきの共感感覚を理性によって拡張するよう努力すること、は善さの要素に入るかもしれない。その範囲は個人差があるし、他者の幸福をどれだけ実現できるかは物理的資源アクセスが影響するから、現実的な他者貢献度合いは善さのレベルに影響しない。つまり「敵味方なく、あらゆる他者の幸福を祈る」姿勢こそが善いということだろうか。

 すると善く生きるとは、すなわち自分自身の不動心を維持しつつも(あるいはその基盤があるが故に)、他者の幸福を祈る態度を保つこと、と言えるかもしれない。