善く生きるとは 9

 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を齧ったので、そこら辺を踏まえてまた考えた。

 快楽はある一定水準までは自然的であり善いが、それを越してくると依存傾向が出て悪になる。だから魂の陶冶によって欲望を統制し、自然的水準で満足できるようにすべきである。この時精神は安定を獲得し、淡い幸福に包まれるのである。では自然的欲求が満たされない状況は悪なのか、というと、悪ではない。しかし、その苦痛から逃れようとすることは、それが自然的範囲に留まる限りで、やはり悪ではない。むしろ善と言えるのだろう。私としては、ストア派エピクロス派も正直変わらないと思っている。自然的快楽にどこまで積極的意味合いを持たせるか、という差異に過ぎず、非自然的・過剰・依存的快楽を敵視している点では共通しているからだ。

 蓋し善には他者との関係のあり方も含まれるだろう。他人を幸福にするのは善であり、不幸にするのは悪だと、直感は主張する。では他人を幸福にするとはいかなることか。これは第二段落で述べたことがそのまま妥当する。すなわち、魂の陶冶を助け、その上で、つまり欲望を制御させた状態で、自然的快楽を満たしてやることである。この順序は極めて重要だと思う。精神修養無くして快楽を与えるのは、制御されない爆発連鎖を誘引することであり、崩壊へと至る壮大なドミノの最初のピースを倒すことに等しい。欲望制御という安全装置がある限りにおいて、快楽は善いのである。ではこの「精神修養の補助」とは何か。布教活動か。そうかもしれない。私の哲学は宗教と言えるほどの内容ではないが、ある他者に対しこういう考え方を受け入れてもらって、アタラクシアを目指しましょう、それが幸福ですよね、と説いて、はい心からそう思います、とならないといけない。これはどうしたらできるのか。

 昔の宣教師のように旅して回って説教するか。現代の作家やYoutuberのように、自分の意見を文章や動画にして配信するか。いずれも悪くなさそうだが、しかし、真の意味で相手の精神に作用するには、生活を共にするほかないような気がする。一挙手一投足、発言の節々、自分の生き様それ自体がアタラクシアを体現する限りにおいて、その芳しさが他者に伝播するのであって、リーチ数は問題ではないと思う。そして生き様を示せる他者というのは、すなわち身近な人々、隣人以外にはない。いやむしろ、「数」というアノニムな概念に執着することは、アタラクシアを伝道せんとする自分自身をして名誉という欲望の奴隷たらしめることに他ならず、そんな名誉欲の支配下にある「不動心」を誰が信じるだろうか。深さよりも広さを志向する時点で、目的から遠ざかるのである。

 そうして魂の統御を実現した他者に対し、自然的快楽を提供するのは善である。仲間にパンを分けたり、看病をしたり、共に歌ったり。などなど。とはいえこの善は、魂の救済の善を主とするならばむしろ従、前者をカツ丼とするならば後者はお新香である。逆に、魂へのエンゲージができない「赤の他人」に対して、「自然的範囲内であれば善であるから」ということで快楽を提供せんとするのは、厳密には善でないどころか、先述の通り、欲求の無限階段、メフィストの罠へと貶める行為でありむしろ悪とすら言えよう。また、その「赤の他人」に苦痛を与えることは、無論悪であることに違和感はない。

 まとめると、「善く生きる」とはまず第一に自分の精神を統御してアタラクシアを実現することである。第二に、その生き様によって隣人の魂をも救済することである。この時、広さよりも深さを優先し、かつアノニムな他者への無責任な関与は最小化することである。最後に、これは必須ではないが、自然的範囲の快楽を堪能することである。つまり善く生きるとは、徹底的に身近な生活空間と向き合うことと言えよう。