左脳と右脳の自省録

 名誉、承認欲求、善の意識、貢献意欲等々を司る左脳的領域と、好奇心、趣味、愛や美意識を司る右脳的領域。一言に内面といっても大まかにこの二つがあって、しかも時に鋭く対立するので丁寧に紐解いていかないと自省は完成しない。

 「善く生きるとは」シリーズで垂れ流してきた自意識過剰気味な文章はもちろん左脳に属している。根詰めて訳が分からくなっていたが、今となってはクリアな理解に到達してた。

 事の出発点。Ground Zeroには「善」の探索がある。それも公共の善に貢献するには何をすべきか、という問いである。様々な語り方がありうる中で、たどり着いたのは「恐怖と強欲への対処」である。これがLevel1。

 トゥキディデスは「恐怖」「利益」「名誉」が戦争の原因だと言ったとかなんとか言われているし、高坂は国際政治の分析フレームとして力・富・価値の体系を提示した。3つのバランスがいいのはわかるが、利益も名誉も、最低限必要な「ライフライン」や「自尊心」を超過するものは結局「強欲」で片付けられると思うので、恐怖・強欲という二輪がわかりやすいと思う。

 資源不足でパニックになるのは恐怖が混乱原因になる例であり、隣国の急激な軍拡(その理由もまた恐怖か強欲であろう)に触発されてミリタリズムが台頭するのもまた別の例である。新興国ナショナリズムが爆発して挑戦主義に走り緊張を招くのは強欲の例。自らの共同体が掲げる理念を普遍ならしめるべく暴力的介入を繰り返すのも、ある種の強欲であろう。さらには、強欲と恐怖が一体となって集団を席巻するとき、そこには「狂気」が生まれる。耳を疑うような人類史上の悲劇の背後には、必ずこの狂気があるのではないかというのが今の仮説である。何れにせよLevel1にて「恐怖と強欲への対処」を掲げるならば、次の問いは「いかにして」である。

 蓋し対処法は3つに大別される。「鎮魂」「統制」「救済」である。鎮魂とはもっぱら精神活動に焦点を当てるものであり、例えば宗教や思想が当たる。政治経済社会の崩壊期において全く新しい思想的パラダイムが切り開かれることが、鎮魂に当たるといえよう。統制とはマキャベリ的権謀術数によって恐怖や強欲をコントロールすることを指す。集団心理を政府のプロパガンダ・情報統制によって管理するであるとか、拡張主義を取る隣国に外交・軍事的圧力を加えて抑止するといった施策が含まれる。救済とは努力と創意工夫によって困窮を克服する営為を指す。飢饉は品種改良で、水害はダム建設で、エネルギー不足は新規油田開発で、と言った具合に「不自由」や「欠乏」を(広義の)技術で克服する姿勢であり、産業革命以降のファウスト的精神とも言えるかもしれない。

 Level1で定義された善をなす方法はざっと見るだけでも大きく3つのカテゴリーがあり、その中でも非常に細かく細分化される。その中でどのルートを採用するかにこそ個性が出る訳であり、後述する「右脳」領域も関与してくることになる。あとは偶然や成り行きといったいい加減な要素によっても左右される。自分は右脳領域のモチーフである「自然」「工芸・技術」に、メタルギアソリッド4にはまったことで興味を持っていた「中東紛争」などの要素が加わることで、「石油」「中東」「エネルギー安保」といったキーワードが浮かび上がった。ここにおいて、Level2のスローガン「石油の脱中東依存によるグローバル・オイル・セキュリティ」が定まった。(ここは、「インド太平洋戦略による中国抑止とアジア平和」でも、「LGBT権利向上によるInclusiveな社会の実現」でも、はたまた「原子力復活によるエネルギーと温暖化問題のジレンマ解消」でも何でも良い。Level1からcascade downできてさえいれば。)

 で、Level2を実現するさらに細かい施策として、具体的に自分がどんな仕事をするのかという問いがある。石油の脱中東といってもシェールオイルもあればガスリキッドもあり、ロシアもあるよねと。色々あるのだが、最もhigh potentialだと思うのが深海であり、かつこれまた右脳的趣味に合致するので、「海洋開発」というのをLevel3に据えた。実際今は海洋開発をする会社にいるので、あとは上手いことやって名を挙げて広く業界に貢献するのみである。この部分でどうバリューを出すかというのは、以前「スキルの三階層」で書いた通りで、リーダーシップ、戦略思考、現場スキルという部分をしっかり身につけていくことかと。

 よって、Ground Zeroたる「公共善」に向けてLevel1: 恐怖と強欲への対処、Level2: グローバル・オイル・セキュリティ、Level3: 海洋開発という構造が明確化された。これが左脳領域におけるヒエラルキカル・モニュメントである。

 一方右脳はどうか。モチーフは「自然」「工芸・技術」である。このモチーフを何らか一点突破的な趣味で表現するのか、はたまたライフスタイルそれ自体に浸潤されるのか。従来は前者の考えでいたがどうも行き詰まる。一つの趣味(例えばロードバイク)を「極める」ところまでいかないのだ。それよりも、モチーフに沿って広く浅く嗜む。そこにこそ世界観の完成の道筋が開かれているのでは。左脳がヒエラルキカルで明示的だったのに対して、こちらはフラットで曖昧。それで良いのかもしれない。右脳領域の探索はまだ始まったばかりである。