EROIと戦争

 戦争はなぜ起きるのか。戦争そのものの合理性と、政策決定の合理性という二つに分けて考えるとわかりやすいとふと思った。前者は政治的決断として戦争をするのが正しいかどうか、後者は政治的に正しいと思われた事柄を実際に実行に移せるか、という視点である。

 戦争は政治の延長とはよくいったもので、昔は(ハーグ不戦条約より前は)ごく当たり前のように傭兵なんかを使って戦争していたのだと思う。WWⅠで総力戦概念が登場して戦争は原則禁止、やめましょうということになった。倫理的に戦争がよくないというのは異論なしなのだが、とはいえ追い詰められたら戦争はするのだと思う。で、どういう状況になると戦争するのが政治的に正しいということになるのか。まずは「政治的に」という部分を突っ込む必要がある。これは簡単にいえば、支配者が支配を継続できること、と言えるのではないだろうか。「国益」の定義は難しいが斜に構えて冷徹に捉えれば要は支配者が支配的地位を維持できることを指すのだろう。デモクラシーであろうとなかろうと、被治者の利益を無視した統治は持続しないので多かれ少なかれ国民全員のことを考えざるを得ないので、結局漠然とイメージされがちな「国益」とその内実は大して変わらない。つまり支配者が支配的地位に留まるという大目標に適うか否かという基準に立って、戦争という手段・状況が望ましいか否か、ということを言っていることになる。

 ここでおなじみのEROIを持ち出して分析してみる。高 EROI環境と低EROI環境によって状況が変わる。前者であれば経済余剰が多いので自然と交易が盛んになる。現代がこれに該当していて、要は国境を超えたグローバルサプライチェーンが形成されるので、まず経済的にいえば戦争は割に合わない。支配者にとって経済が悪化することは自分自身の富や権力の減少を意味するのみならず被治者の不満を高めることになり支配的地位の命取りになるからである。また、支配者は権益を守るべく必ず武装するという前提を置けば、経済余剰が多ければ武力の量・質も高くなるのであり、自ずと高度な抑止状況が成立する。その究極形態は核抑止である。核戦争になれば全てが灰になるので、支配者がそれを望むわけはない。こうして経済的相互依存と核抑止という二本柱が自ずと成立するのであり、高EROIは構造的に平和を創出することになる。

 またこの時、被治者は経済成長に首ったけなのであって、それをリードするエリートに対する心理的共感を持つのではないか。高度成長期日本の官僚や政治家がそれなりに愛されていたように。政治家は大胆に、官僚はのびのびと天下国家を語る、そんな理想郷がそこにはある。もちろんこうであるから、エリートが非合理的だと考えるような戦争が起こる蓋然性は極めて低い。

 ではEROIが下がるとどうだろうか。経済余剰の減少はまずは経済的下層の極限的な困窮という形で現れる。それは経済的保護主義の台頭を惹起しグローバルサプライチェーンは徐々に切り崩される。それは全体の富を減少させることで結局下層の生活はさらにひどくなり、ネガティブスパイラルに突入する。経済規模がもともと小さい地域ではこうした変動に耐えられず民衆のデモに始まって時を置かずして暴力的抵抗に移行する。保護主義の台頭は米国でも見られたし、中小国のメルトダウンは特に中東北アフリカで顕著である。この時、戦争の政治的合理性はどう変化するだろうか。経済相互依存関係は徐々に希薄になり、国の貧困化に伴い高価な軍事システムの維持も難しくなるから軍事的抑止にも翳りが生じる。すなわち戦争をするコスト・代償というのは高EROI環境に比べてどんどん小さくなるだろう。一方で動機はどうか。国民の不満の高まり、連日の反政府デモという圧力環境において支配者は「共通の敵」を設定することに利益を見出すだろう。するとここで論点になるのは「機会」である。つまり共通の敵を見出してうまく国民の団結を生み出せるのか、それができないのか。戦争を防ぐという意味では、団結できない方が良いことになる。この場合内乱によって多くの不幸が生まれるだろうが、国家間戦争は内乱よりはるかに多くの暴力が動員されるので、戦争より内乱がまだマシなのかと思う。功利主義的な意味で。

 蓋し生存圏(水、食料、エネルギー等の供給圏)が競合関係にあれば共通の敵を見出しやすく、棲み分けの関係にあれば見出しにくいのではないか。WWⅡ時のナチスドイツはWWⅠ時の兵糧攻め「カブラの冬」で民衆の不安を煽ったし、旧日本においても大陸・南洋進出の背景には資源途絶による犬死への恐怖があった。この手の恐怖感は支配者・被治者に共通するので、簡単に集団全体を飲み込むことになる。互いに生存圏を確保できていればこうした競合関係を殊更に強調して共通の敵を作り出すことはできず、国家間戦争よりも内乱の蓋然性が増すであろう。

 最後に低EROI環境における政策決定の合理性であるが、ナチスドイツや大日本帝国を見れば明らかなように、集団の狂気は合理的・常識的エリートを放逐するので政策プロセスの合理性は簡単に吹き飛ぶ。そこまで行かずとも、エリートへの反発が世間を覆い、良識的とされるあらゆる施策に疑念が向けられるだろう。短絡的なポピュリストが指導権を奪取して、政策の不確実性が高まる。

 結論は二つある。まず、戦争のような物理的暴力が跋扈することを防ぐことが正しいという観点に立てば、EROIは高くないといけない。現状、イージーオイルの枯渇に加え気候変動対策などで過激な施策がとられつつあるが、ラディカルすぎるとEROIが激減して悲劇を起こすだろう。石油はやはり不可欠であり、この分野のイノベーションこそ重要だと信じる。

 もう一つ、とは言ってもマクロトレンドとしてEROI低下は避けられないだろうから、これを所与とするならば、少なくとも大国(具体的にはアメリカ・中国)同士が生存圏を巡って競合する状況は避けるべきだ。シェール革命が短命で終わりそうな今、結局アメリカも中東石油に頼るほかないとなれば、中国との全面競合になる。アメリカ大陸全体で見れば、特に中南米において石油増産の可能性はおおいにあるので、例えばアメリカ大陸全体でのエネルギー自給くらいを目指すべきではないか。米中の経済デカップリングが進み、核抑止もいい加減になったとしても、生存圏の棲み分けができれば破滅的な泥沼戦争に突入することはないだろう。それが低EROI時代の最善シナリオにも思える。