平和の条件

 大国間の平和共存条件について考えてみた。

  1. 対話/外交:互いの利益に関する明確な相互理解。シグナリング。相互抑止のエスカレーションが慎重に管理される状態。
  2. 軍事力による相互抑止:相互が相手を強烈に害する能力を持ち、かつ、先制された側は反撃力を維持している状態。どちらにとっても武力行使の帰結が自己の破滅であることから、武力行使の合理性が極めて低くなる状態。
  3. 軍事力基盤となる戦略資源の充足:十分な軍事力を維持するために必要なヒト・モノ・カネを、相手のそれを奪取することなく自らの勢力圏から安定入手できる状態。

 

一つ目は割と当たり前なので細かい議論は割愛。個人的には2と3により興味がある。

2の相互抑止は、究極的には核兵器による相互確証破壊。ここで重要なのは「脆弱であり非脆弱であること」、すなわち、相手にやられればそれなりに大変なことになる(=脆弱)一方で、やられても全滅はせず相手を潰す反撃力は維持できる(=非脆弱)という二つの条件が必要。現実的には「敵より強くなりすぎてはいけない」などと考えてわざわざ手加減することにはならず、自らの非脆弱性を高めることにそれぞれ注力するのだと思う。SLBMが核抑止力の花形担っているのも、発見されにくく従って敵の先制攻撃を生き残る可能性が高いからだと理解している。南シナ海が中国軍事戦略上クリティカルなのは、その水深からしSLBM搭載潜水艦を遊弋させるのに不可欠だからだろう。つまりそこに天然資源がなくとも、南シナ海確保は中国の死活的利益と思われる。

 ここで、話はいつの間にか3に移っている。中国の対米抑止力維持のために南シナ海を軍事的に掌握することが必須だと仮定すると、「南シナ海」という「土地・基地(=モノ)」が中国にとっての「戦略資源」ということになろう。次の問いは、同海域は米国の対中国抑止力維持にとっても必須なのか、という点になる。おそらく「重要だが必須ではない」のだと思う。南シナ海を取られても、グアムも沖縄もあるので米国は中国を攻撃し、仮に先制攻撃されても十分余力を残して反撃できるだろう。純軍事的側面だけを見れば棲み分けができそうにも思えるが、現状において米国が優勢支配する海域を中国が現状変更すれば波風が立ちそうなものだ。2の相互抑止が成立していれば、1の対話がきちんと機能するという前提で、互いの利害調整が進み棲み分けに落ち着くだろう。ところが現状、中国の対米抑止力が不十分ということになると、中国は「米国は足元を見てくる」「最悪攻撃してくるかも」「やられる前に、やる!」という思考回路になってもおかしくない。そうすると戦争になってしまう。(優勢にある米国には、経済制裁から海上封鎖、部分的武力行使まで多様なオプションがある。)逆説的に響くが、非脆弱な中国の核戦力(地下の万里の長城、など)が有効に機能する方が、戦略的には安定するということになるのではないか。

 もちろん、「安定ー不安定のパラドクス」を無視するわけではない。高次元での相互核抑止が成立しても、低次元での低強度紛争まで抑止されるわけではなく、近年のハイブリッド戦法やサイバー、宇宙空間、あるいは貿易戦争という部分の紛争がエスカレートする危険は常にある。これについては、1の対話が肝要であることは論を俟たないが、もう少しマクロな構造としては、やはりこういった低ー中次元紛争においても相互抑止を機能させるべきなのだろう。すなわちエスカレーションラダーの各階層においてそれぞれ均衡した武器を揃えておくということが肝要だろう。例えばサイバー攻撃に対してはサイバー反撃力を、A2/D2に対してはそれにテーラーメードされた各種武力の整備といった具合に。

 このように2の軍事力整備というのはやはり平和の必要条件と思われるのだが、それだけでも足りないだろう。軍事力というのは技術力(ヒト)、兵器製造・展開・運用能力(モノ)、経済力(カネ)などの複合物であって、それら戦略資源の安定供給が不安視されるようであれば、それ自体が安全保障の脅威=国家の究極最強の行動原理、ということになるであろう。事実、昭和陸軍の思想的コンセプトには「原料の自給自足」があったし、ナチスの「生存圏」も似たようなコンセプトだった。17世紀英蘭戦争や20世紀第一次世界大戦も、大国同士が自らの国家基盤=軍事力の源たる戦略資源アクセスを巡って争ったものといえるのではないか。英蘭戦争であれば、軍事力維持を可能ならしめる富の源たる胡椒取引の商権=制海権をめぐる争いであるし、第一世界大戦も同様に経済的富の源たる植民地、そしてより直接的に軍事力を形成する各種天然資源アクセス遮断の恐怖が、国家衰亡の恐れとして国家エリート、そして庶民の精神まで浸透し交戦意欲を高めたのではないか。太平洋戦争時、「石油の一滴は血の一滴」であって、南洋の資源アクセスを求めて南部仏印に進駐するやいなや、英米の戦略資源基地たる東南アジアへの侵略として米国は「一線を超えた」と認識したと聞いている。

 3の戦略資源がゼロサム的に分布する限り、大国間紛争は不可避ということになろう。16世紀スペインポルトガルが戦争しなかったのは、アメリカ大陸とアジアといった具合に戦略資源基盤を棲み分けたからではなかったか。同様に米ソ冷戦が熱戦に至らなかったのも、1の対話・外交と2の相互核抑止はもちろんのこと、3つ目の条件として違いが石油をはじめとする戦略資源をそれぞれの勢力圏で自給できていたことが大きいのではないか。21世紀前半の最大級の地政学的ドラマは米中関係の進展であるが、蓋し3つ目の条件、とりわけ石油供給の地理的偏在性こそが、最大のボトルネックになると思われる。米中両国が中東地域の石油供給に頼れば、その地域の支配権をめぐるゼロサムゲームになるだろう。石油減耗が進展し供給不足が生じれば、中東の支配は米中双方にとって「死活的利益」となりかねない。そこでは冷静な交渉では解決しようのない隔たりがあり、軍事的抑止が成立していようとも、背水の陣に追い詰められた弱者は「窮鼠猫を嚙む」賭けに出る誘引が生じるし、それを察知する強者側には先制攻撃の誘引さえ生まれる。逆に、米国が北米大陸のシェール(近年失速が目立つが)資源と大西洋の海洋油田(ブラジル、ガイアナ、メキシコ、アフリカはまだ伸び代がある!)で自給して中東依存から脱すれば、米中間は高度な相互抑止と冷静な外交関係によってその対立を乗り越え、平和的(敵対的?)共存を達する可能性があると思われる。

 何れにせよ、戦略資源のゼロサム性を低減していくこと(=それは人間の創意工夫、Engineeringによって達成できる)、必要なものを皆が入手できるようにすることは、平和達成に貢献すると信じる。