趣味の整理:「海洋史観」×「キャンプ」×「乗り物」

 「趣味はなんですか」という問いは気軽さを装っていて実はかなりの難物である。というのも、趣味というのはその人の美意識を表し場合によってはアイデンティティをも構成するところ、それについて向き合うことは仕事と同様かあるいはそれ以上に重要であると思われるからである。(どんなに特殊なものであれ)仕事は結局のところ分業作業の歯車であって「個性」は不要だが、趣味、自分の人生はそうはいかぬからである。私はそういうわけで自分の趣味というものを真剣に考察してしまうのだが、これがドツボにはまり、好きでもないことをやろうとしてみたり、好きなのに抑えてしまったりと、堂々巡りを繰り返すのであった。

 自分の興味や美意識を突き詰めたエッセンスを持ち、現実に即して実行可能・持続可能であることが必須であるが、あまりジェネラルにまとめ過ぎると発散しすぎて全て中途半端になってしまう。nature/craft/historyという三要素を5年ほど前から意識してきたが、これは少々概念的・ジェネラル過ぎると思う次第である。もう少し焦点を絞らねば、と考えていたところ、一つの暫定的結論を導き出した。

  • 海洋史観 × キャンプ × 乗り物

である。海洋史観、これはフェルナン・ブローデルが提唱するところの、海のレンズを通して陸を見つめる、海の役割を主軸に人類史を概観する歴史的立場であるが、これを主軸に据えてみたい。趣味に対置されるところの公共的な役割(要は、仕事、場合によってはボランティアとかも含むが)におけるライフテーマを「海とテクノロジー地政学」としてみたので、それに連動する形である。

 海洋史観といっても、何も洋上で起こることだけに注目するものではない。むしろ、陸で起こることを海と紐づけて理解する立場であるという意味で、その視線は海から陸へと注がれている。この視点は、近代世界システム論や、世界商品(コーヒー、茶、酒、石油等々)のグローバル・ヒストリーという理解と極めて親和性が高い。これこそが私の歴史に対する興味の本質である。(歴史好きといっても幅広いので、個性の表現という意味ではこのくらいの限定をかけないと何が好きなのかよくわからないのだ。経験上、相手に歴史好きですと言われて、話が本当に合うかは結構微妙なのである。私は戦国武将や偉人伝には興味が無いし・・)

 キャンプとは何か。ざっくり言えば野宿することである。その面白さの本質は何であろうか・・・私は小学生の頃にキャンプにどはまりして中学以降中断し、社会人になってから再燃したのだが、そのきっかけはエド・スタフォード氏のサバイバル動画であった。生存に最も重要な要素、すなわち食料、火、水、シェルター(これが地政学フレームで用いる「FEWS」の出発点)をいかに効率的に獲得していくか。文明に飼い馴らされた我々から失われてしまったそう言う動物的本能を活性化させる点にキャンプの面白さがあると思う(といっても、私はサバイバルキャンプなどできるスキルはないが・・)。

 乗り物。これはart of engineeringである。どんな乗り物も、進むことに最適化され洗練されたものは美しい。ロードバイクやヨット、自動車、飛行機はどれも美しいのである。男の子は乗り物が好きというステレオタイプがあるが、私には少なくとも当てはまる。しかし美しいものに男女もヘチマもあるまい。自転車好きの女子だって沢山いる。というわけで叶うものなら自転車から車、ヨットに飛行機まで全て所有して乗り回したいものだがそうは問屋が卸さない。今所有しているのはロードバイクだけであり、ヨットは是非乗ってみたいのだが所有するには至らないだろう。帆船模型も作るので、それを眺めるのでも足りる。知り合いにサラリーマンをしながらアマチュアパイロットの免許を持つツワモノがいるが、そこまでする気は今の所ない。。それならヨットをもう少し極めたいものだ。

 以上、海洋史観・キャンプ・乗り物という三要素で趣味を整理してみたが、これらはベン図の如く、全て重なる領域から全く重ならない領域まで様々である。単純計算で7通りのバリエーションがあるだろう。

  1. 海洋史単体:部屋で海洋史に関する読書
  2. キャンプ単体:近所の公園でソロキャンプ。
  3. 乗り物単体:河川敷をサイクリング
  4. 海洋史観×キャンプ:海岸でキャンプ。
  5. 海洋史観×乗り物:セーリングカヤック/海岸沿いのサイクリング。
  6. キャンプ×乗り物:キャンプ道具積んでオートキャンプ
  7. 海洋史観×キャンプ×乗り物:カヤックにキャンプ道具積んで島キャンプ

とまあ、なんかここまで分析的に書くと変な気がするけど、こんな分類になるだろうな。

今の自分に欠けているのはマリンスポーツの要素であるので、早いとこヨットやカヤックを守備範囲に加えたいものである。

Tier1-3再構成(FEWS地政学論補記2)

主体の違いと行動内容を基礎に再分類しようと思う。

 

Tier1: VT保持主体たる企業による国際競争戦略

Tier2: 国家によるVRの管理と、VT育成政策(関税や産業保護政策等)。

Tier3: 国家によるVG (VT/VR)の交換戦略。いわゆる外交交渉。

 

軍事分野で考えると、Tier1は軍事産業の国際動向。軍事専業の会社は多くなくほとんどがdual useの民生分野を主たる領域としている。そういった企業の国際競争戦略の話。

Tier2は、まずVRでいうと、軍隊の維持管理(採用育成)、兵器システムへの投資、基地の整備等がVR管理に該当する。なお軍事テクノロジーを使いこなすintegration力は軍隊自体に宿るところ、一部VT育成とも重複する。加えて、軍事産業をいかに保護発展させるかという産業政策じみた発想もあるだろうから、こちらもVT育成政策ともかぶってくるが、こちらは経済主管庁との協働ということになるだろう。武器輸出といったテーマはTier3にも関連するが、VT育成政策と捉えることもできるだろう。

Tier3は言うまでもないが、自国の軍事アセット(:VG=VR/VT)をどう使って安全保障を達成するか、同盟が必要なら何のVGを提供するのか、といった取引ゲーム戦略である。

 

Tier2-3は完全に国家の地政学論理=FEWSをいかに安定確保するか、という国益ベースで発想されるが、面白いのは、最も肝要なVT(産業力・技術力)は基本的には経済競争の論理で動くということである。いくら国益を叫んでも、赤字が続けば経営は成り立たず技術は失われていく。Tier2による保護政策も適度には必要だが、こちらに頼りすぎてもゾンビ企業が量産されるだけになり兼ねない。世界水準のVTを維持しようと思えば、それは国際市場で勝つことと同義であり、基本的には産業界自身の努力が必要とされると個人的には思うところである。中国のハーウェイは間違いなく国家の支援を受けてはいるが、その経営者のバイタリティーと才気たるや、只者ではないだろう。結局のところ、こうしたハングリー・スピリットに裏打ちされた産業力こそが、国力の本質ではないか。

 

 

VTの4要素(FEWS地政学論補記)

Vital Technology、すなわちFEWS生産に関連する各種テクノロジーであるが、VTももっと深掘りして分析できると思った。

VT = (Transportation + Energy + Communication )× Integration 

といったところだろうか。輸送、エネルギー、通信というのは現代の機械文明における基本要素とも思われるところ、結局現代社会でFEWSを生産するのに必要なテクノロジーというのもこの3要素に収斂すると思われる。これら要素技術を束ねて全体のintegrityを保ち、使いこなすノウハウも勿論重要であり、それはintegrationと呼ぶことにする。

 

例えば軍事力に関するVTであれば、核弾頭は核エネルギー技術、ミサイルはロケットという輸送技術、自律型無人機は航空という輸送技術と通信技術の結晶である。それらテクノロジーを全体として束ね、目標達成に昇華するマネジメントノウハウこそが優れた軍隊のcapabilityであり、それがintegartionである。

 

軍事に限らず、食料、水資源、エネルギーといったFEWS全てに関して上記が当てはまる。深海から石油を掘るにあたっては、船舶工学(輸送技術)に基づく船体型ドリルシップや生産プラットフォームを使用し、海底工事には無人潜水艦(ドローン)という輸送技術及び通信技術が用いられる。洋上におけるエネルギー供給にはガスタービンや、最近では風車といったエネルギー技術が用いられる。これら各種テクノロジーを駆使してエネルギーという成果物を生産するノウハウが、石油会社やエンジニアリング会社のintegration力であり、付加価値の本質である。

 

技術と安全保障の議論の文脈でしばしば登場するdual use=軍民両用と言うのは、上記を踏まえればむしろ当たり前のことである。テクノロジーのコアをなす領域(ここでは、TECの三つ)は全て共通であって、それをどのようにintegrationしていくかによって、成果物(FEWS、あるいは全く別の何か、例えばエンタメなど)が異なると言うだけである。

 

ところで、いわゆる資源国(VR保持国)は、それ自体で交渉力があるのかと言うと、微妙なのかもしれない。資源はそれ自体ではただの無価値な物質であって、そこにVTを加えることで初めて経済的軍事的な価値を持つのである。VTの一切を他国に依存する資源国は、そのVTの成果物たる資源を交渉のカードにすることは難しいだろう。そうしてみたところで(=この資源を提供するから他のVRを下さい、換言すると、そのVRをくれないならこの資源をあげませんよと言う脅し)、VT提供の遮断を示唆されるのがオチであり、仮にそうなれば、頼みの綱である資源それ自体が生産できないのだから。ゆえに、資源国の多くが自国の産業育成、技術発展すなわちVT獲得に躍起になるのは全く正しい政策なのである。然もなくば、植民地時代よろしく搾取されてしまうであろう。

 

現状では食料と水の不足感がそこまで存在しないことから、中期的にはエネルギーと軍事がFEWSの中でも焦点になるだろう。日本においては両分野に係るVTをいかに形成していくか、そして海外市場で勝っていくかと言うことが、安全保障の要になると思われる。サイバー(通信)やドローン(輸送)が次世代の肝であるが、日本が勝ちうる分野はまだあるだろうか。宇宙と海洋という地理的なフロンティアにおけるそれだろうか。広大な海洋領域を抱える島国としては、海洋のVTに個人的には期待をかけている。海は(歴史上一貫して)軍事的競争の主たる舞台であると同時に、次世代のエネルギー産地でもあるからだ。洋上風力や海底鉱物といったVRは一応存在するわけであり、その開発に係るVTを磨いていくことが重要だろう。それはそのまま、軍事のVTにもなるのである(dual use)。Shell Xprizeで、JAMSTEC主導の日本チームが2位の功績を残したのは希望の光であろう。

 

FEWS地政学論

以前、「戦略資源と安全保障」というエントリーでは、安全保障問題を三つのレイヤーで考えた。生存財=必須資源=FEWSの分布と、その取引、そして危機管理である。

 今回は、このフレームに少し変化を加えたいと思う。

  1. Tier1: VG(FEWS+T)分布。これは以前と変わらず。食料、エネルギー、水、シェルター(治安国防防災防疫)と、それらを入手可能ならしめるenablerとしてのTechnology(これは管理技術や広いノウハウも含む広義のそれ)。FEWSをVR: Vital Resourceと呼びTechnologyにもVitalという形容詞を付け、VTとする。FEWS各分野に紐つく形で、例えば食料技術であればF-VTと呼ぶことにする。VRとVTを合わせてVG: Votal Goodsと呼んだ。シェルターはもっぱら軍事資源を意図しているのだれど、昨今のコロナ危機を見て、医療や防疫もこの領域に含めて良いなと感じているところ。このシェルターというのは、建設や資源開発の世界で一般的な HSSE (Health, Safety, Security and Environment)という概念に近いかもしれない。健康や安全を保つための各種資源ということ。VRは自然資源であって地理的制約で分布が決定されるが、VTは人間の知恵やノウハウであるから、こちらは人間の努力次第でどうにでもなる。その担い手はいわゆる当該分野の「プロフェッショナル」(食料であれば、研究者や農業実務家、エネルギーであれば研究者や開発従事者、等々)であり、その職業倫理が導くところの内発的動機、そして経済的利益という実利的動機、さらには以下で見るようなTier2,3の政治的介入により、その分布をダイナミックに変動させることになる。
  2. Tier 2:VG生成戦略。ここが前回と少し違う。国際関係・地政学の本質を各国同士のVG確保を目的とする競争的ゲームと定義するならば、「交換」の前に、自分のカードをいかに生成するかという要素が来るべきと考えたので、この要素を追加した。例えば、潜在的石油資源を抱えるのに国内政治や制度の束縛により開発ができていない国が、内政方針を変更して規制緩和外資導入を図って開発促進をするといった話は、このTier2に該当すると言えよう。あるいは、上述の文脈で、外資解放しすぎると国内に技術(=VT)が残らず国益を損なうから、一定程度のLocal Contentsを義務付けるべし、という政治的議論も、またTier2の範疇である。国内のVG資源をどう生成するか、という視点で国家が市場介入するということであるから、主体は専ら政府であり、その方法は規制と補助金である。これは外交戦略というより経済戦略、技術戦略などと呼ばれる領域であって、対応する省庁も、農務省、エネルギー省、環境保護庁、国防省など、それぞれの専門分野に対応する形で多岐に渡ることになろう。
  3. Tier3: VG交換戦略:前回までTier2にしていた要素が3に来て、危機管理は外した。Tier1,2で定義されたVGの手札を持って、他国の状況を睨みつつ、最適な交換取引戦略を考案実行していく。

 

Tier1の主体は民間のプロフェッショナル(一部、軍人等も含むので全て民間ではないが)であってその動機は多様である(その分野で名を挙げたいとか、人に貢献したいとか、単にお金持ちになりたいとか)一方で、主体が政府となるTier2,3で目指されるのはその共同体のFEWSの確保である。これは生存財であって共同体の必須不可欠な要素だから。例えば国内に食料やエネルギー資源を欠き、自給化がほぼ不可能ということであれば、Tier2において他国とTradableなVGを生成するように努力しつつ、それを材料としてTier3において取引を実行することになる。無資源の技術先進国が獲得しやすいVGは軍事技術(S-VT)であるが、日本やドイツのように、歴史的背景を引きずる国はそれも難しいだろう。だが、何らか見つけていく他ないのだと思う。

 

ところで戦争というのは、このFEWS獲得が思うように行かず、もはや武力による奪取しか術がない状況に追い込まれた共同体が生じることが原因だと思われる。少なくとも近代以降の戦争はそのコストが非常に大きいので、平和的に取り引きで獲得できるものを、あえて戦争で獲得する合理的動機はなさそうであるから、20世紀以降の大きな戦争の背景には、やはり武力に訴えでもしないとFEWS確保に支障が生じうると言う恐怖が生じていたと思われる。VRが地理的制約ゆえにその偏在性を克服できない以上、望みがかかるのはVTの拡散であろう。(もちろん、Tier2,3の懸命な戦略が重要なのは言うまでもない。が、それは畢竟「取り合い」の競争的戦略であるから、VGが決定的に不足する中では、その帰結は弱肉強食の闘争でしかないのも事実であろう)

 

私はエネルギー開発の世界において、E-VTの改善と拡散に一役買いたいと思うところである。これが私の善の指針となっている。

 

戦略資源と安全保障

 戦争の問題(安全保障)を考える際には、いろいろなレイヤーの話がごちゃ混ぜになって混乱することがある。いわゆるミスコミュニケーションによる事故の話なのか、戦略策定のミスなのか、はたまた構造的に「詰む」ことによるほとんど不可避的な破局なのか。単純明快な切り分けは不可能としても、一定の分析枠組みを持つことは可能かと思い、以下のフレームワークを考えた。

  1. 戦略資源(Vital Goods)の分布
  2. 戦略資源の取引
  3. 危機管理

の三層に分かれると思う。

 

【1. 戦略資源の分布】

Vital Goods("VG")とは国家生存に関わる必須資源のことであり、Food, Water, Energy, Shelter ("FEWS")の分野から構成される。なおShelterは国防・軍事を指す。VGはさらに二つの要素に分解される。Vital Resource("VR")とVital Technology("VT")である。

  • VG = VR + VT

VRは物理的資源そのものであって、食料であれば豊かな土壌や漁業資源、エネルギーなら石油ガスの埋蔵量などを指す。国防におけるVRは、土地・人・軍事物資の三要素からなり、他国の軍事戦略上の要衝に位置するような小国であっても、その「土地」の特殊性故にShelter VRを持つことになる。

  • Shelter VR = land + people + military goods

VTはいわゆる「技術」であるが、狭義の科学技術よりも広い意味合い、すなわち手法やノウハウまで含む。石油開発に係る技術を考えると、使用される特殊鋼材や回転機の製造技術(いわゆる「狭義のテクノロジー」)ももちろん重要だが、全体のプロジェクトマネジメントといったソフトな管理技術も同様に重要になる(広義のテクノロジー)。ざっくり言って、VTは産業力とでも言えると考えている。

  • Technology= underlying technology + management technology

VRは自然制約であるから、それ自体をどうこうすることは難しい。強いて言えば、漁業管理問題のように、既存資源の使用方法について合理的な規制体系を作ることによって持続性を高めると言った具合だろうか。それも重要だが、個人的にはVTをいかに獲得育成していくか、が、国家安全保障の中核に位置づけられるべき最高レイヤーの課題だと思われる。

 

VTの担い手は、端的に言って企業である。軍や水産庁など、専門分野のTechnologyを持つ政府機関もあるが、それはむしろ例外だと思う。社会主義計画経済であれば、国家が特定産業を指定して集中投資し企業活動を手取り足取り管理するだろうが、それがイノベーションを阻害し、結果うまくいかないことは歴史が証明したのであって、多かれ少なかれ、市場の自律性に任せてこうしたVTが育まれるのである。政府の役割は「コーディネーター」あるいは「プラットフォーマー」であり、各企業同士のネットワーク作りや、自由市場原理では絶対に採用されない長期テーマに補助金をつけると言った「パトロン」としての振る舞いが求められるだろう。

 

米国は言わずと知れた超大国であるが、その強さが溢れんばかりのVGに由来することに気づく。豊かな国土に由来する数多のVRは脇に置いてVTにしぼっても、軍事(航空宇宙、サイバー)産業の力強さは圧倒的であり、そこにおける大学、研究機関、企業、政府(ペンタゴンDARPA)の有機的ネットワークが、絶え間ないイノベーションと国際市場における競争力を支えているのではないか。人工知能やロケットは今や軍事技術の最重要分野だが、GoogleやSpace Xこそが文字通り米国の安全保障を高めているのである。またエネルギーメジャーを多く抱え、世界中のエネルギー供給は多かれ少なかれ米国企業のtechnologyに依存しているのである。政府と企業の関係性は国柄や置かれた経済状況により異なるだろうが、「選手としての企業」「スポンサーとしての政府」の関係は原則として万国共通ではないだろうか。

 

【2. 戦略資源の取引】

VGが手札とすれば、それを用いたカードゲームのプレイが次の話題である。VGつまり戦略資源は換言すれば交渉資源でもあり、自らが持つ手札をどう使って、不足分を補うかを考えるのも重要だ。一部の大国を除き、VGを全部自給自足できる国はほぼ存在しない。ここで重要なのは、VGはVGとしか交換できないということだ。日本の漫画が素晴らしいから日本人のために命賭けて戦ってください、とか、石油を分けてくださいと言っても無駄なのである。Vital Goodsは同じようにVitalなものとしか取引できない。

サウジアラビアは豊富な原油というVGを持つが、軍事資源や軍事技術といったVGはない。だから米国と取引をして、石油供給を約束する代わりに軍事力を分けてもらう。このように、自分の国家が生存に最低限必要なVGを一通り揃えるように知恵を絞り外国と交渉する、これが外交安保戦略ということになろう。石油ガス資源というVRと最先端の軍事技術というVTを用いて諸外国との関係を構築し、安全保障を実現しているのがロシアだ。自分が持っているカードを見極めて賢く使わねば、宝の持ち腐れとなり、その最悪の帰結は、必要なVG確保に失敗し窮鼠猫を嚙むがごとき武力行使ということにもなり兼ねない。

なお言うまでもないが、この「取引」の実行主体は政府のみである。政府が戦略を議論し、取引を実行する。ただし戦略策定には国内政治、特に世論も関係してくる。繁栄と平和のためにはナショナリズムを抑えて西洋に迎合するのが合理的も、当該国の国内政治においてそれが常に正解とは限らない。宗教保守層やナショナリストを支持基盤に持つ政権なら、それらを、無視することは政治的自殺になるだろう。政治指導者には、国内政治と国際政治双方を睨む戦略眼が必要だろう。

 

【3. 危機管理】

戦争の政治的経済的軍事的コストがそれなりに大きいことを前提してもなお戦争が起こるのは、囚人のジレンマやコミットメント問題によって説明される。つまり直接対話がなければ信用しようがないからジレンマに陥る、しかし仮に対話できても、相手を100%信頼できる確証がないから結局ジレンマから抜けられないということだ。そうはいっても、相手国との定期的な連絡(官民軍各レベルで)や首脳間ホットライン、相手国を徹底的に研究する真摯なインテリジェンスなどを通じて、これらの問題を緩和することはできるだろう。

またいざ有事の際、戦場の霧のごときカオスの中で冷静沈着な判断を積み重ねるリーダーがいるか否かによって、危機を克服できるかどうかが決まる部分もある。戦略資源分布や取引を合理的に行っても、危機管理が杜撰であれば戦争に至る可能性は拭えない。

 

以上3つのレベルで分析したが、自分が一番興味を持っているのはTier1の戦略資源分布である。というのも、日本はこのVGをほとんど保有していないように見え、構造的に詰むのではと思われるからだ。(逆にTier1に問題がなければ、戦争はほとんど起きないと思われる)

資源の少ない島国ということでVRに恵まれないのは仕方ない。ところが、一般に技術立国と言われてきた我が国の「技術」とは、全然Vitalな分野ではない。つまり「戦略」的じゃないと思われる。自動車や家電技術は平時において生活を豊かにする役には立つが、有事において国家国民の生存には直結しない。戦略分野というのはやはりFEWSの分野なのであって、どうにかこの分野のtechnologyを獲得、即ちこの分野で国際競争力ある産業を育成しないことには、その頼みの同盟すら維持できないと危惧する。(日本が日米同盟の対価として提供してきたvalueとは、米国軍事戦略上の要衝たる日本列島を基地として差し出すことであり、いわば土地というVRを交渉カードにしてきた面がある。ただしこれは米国軍事戦略のあり方に依存するため、「閉じる米国」という流れの中で無効化していく可能性がある)

米国の存在が遠のく中でインド太平洋諸国との連携が重要になるとはよく言ったものだが、そうした島嶼国とて、日本側につく義理はないのである。中国に巻かれてしまう方がかえって安全かもしれないという時に、日本が自陣営に引き込むには、やはりVGを交渉のテコにする必要があろう。そうした交渉カードがあまりに不足すれば、結局孤軍奮闘のほかないのであり、我が国がそうした状況に置かれた際にどうなるか、歴史を知っているだけに想像したくはない。VGをどうにか獲得していくことが、我が国の、そして東アジアの、ひいては世界の平和の前提となるだろう。

平和の条件

 大国間の平和共存条件について考えてみた。

  1. 対話/外交:互いの利益に関する明確な相互理解。シグナリング。相互抑止のエスカレーションが慎重に管理される状態。
  2. 軍事力による相互抑止:相互が相手を強烈に害する能力を持ち、かつ、先制された側は反撃力を維持している状態。どちらにとっても武力行使の帰結が自己の破滅であることから、武力行使の合理性が極めて低くなる状態。
  3. 軍事力基盤となる戦略資源の充足:十分な軍事力を維持するために必要なヒト・モノ・カネを、相手のそれを奪取することなく自らの勢力圏から安定入手できる状態。

 

一つ目は割と当たり前なので細かい議論は割愛。個人的には2と3により興味がある。

2の相互抑止は、究極的には核兵器による相互確証破壊。ここで重要なのは「脆弱であり非脆弱であること」、すなわち、相手にやられればそれなりに大変なことになる(=脆弱)一方で、やられても全滅はせず相手を潰す反撃力は維持できる(=非脆弱)という二つの条件が必要。現実的には「敵より強くなりすぎてはいけない」などと考えてわざわざ手加減することにはならず、自らの非脆弱性を高めることにそれぞれ注力するのだと思う。SLBMが核抑止力の花形担っているのも、発見されにくく従って敵の先制攻撃を生き残る可能性が高いからだと理解している。南シナ海が中国軍事戦略上クリティカルなのは、その水深からしSLBM搭載潜水艦を遊弋させるのに不可欠だからだろう。つまりそこに天然資源がなくとも、南シナ海確保は中国の死活的利益と思われる。

 ここで、話はいつの間にか3に移っている。中国の対米抑止力維持のために南シナ海を軍事的に掌握することが必須だと仮定すると、「南シナ海」という「土地・基地(=モノ)」が中国にとっての「戦略資源」ということになろう。次の問いは、同海域は米国の対中国抑止力維持にとっても必須なのか、という点になる。おそらく「重要だが必須ではない」のだと思う。南シナ海を取られても、グアムも沖縄もあるので米国は中国を攻撃し、仮に先制攻撃されても十分余力を残して反撃できるだろう。純軍事的側面だけを見れば棲み分けができそうにも思えるが、現状において米国が優勢支配する海域を中国が現状変更すれば波風が立ちそうなものだ。2の相互抑止が成立していれば、1の対話がきちんと機能するという前提で、互いの利害調整が進み棲み分けに落ち着くだろう。ところが現状、中国の対米抑止力が不十分ということになると、中国は「米国は足元を見てくる」「最悪攻撃してくるかも」「やられる前に、やる!」という思考回路になってもおかしくない。そうすると戦争になってしまう。(優勢にある米国には、経済制裁から海上封鎖、部分的武力行使まで多様なオプションがある。)逆説的に響くが、非脆弱な中国の核戦力(地下の万里の長城、など)が有効に機能する方が、戦略的には安定するということになるのではないか。

 もちろん、「安定ー不安定のパラドクス」を無視するわけではない。高次元での相互核抑止が成立しても、低次元での低強度紛争まで抑止されるわけではなく、近年のハイブリッド戦法やサイバー、宇宙空間、あるいは貿易戦争という部分の紛争がエスカレートする危険は常にある。これについては、1の対話が肝要であることは論を俟たないが、もう少しマクロな構造としては、やはりこういった低ー中次元紛争においても相互抑止を機能させるべきなのだろう。すなわちエスカレーションラダーの各階層においてそれぞれ均衡した武器を揃えておくということが肝要だろう。例えばサイバー攻撃に対してはサイバー反撃力を、A2/D2に対してはそれにテーラーメードされた各種武力の整備といった具合に。

 このように2の軍事力整備というのはやはり平和の必要条件と思われるのだが、それだけでも足りないだろう。軍事力というのは技術力(ヒト)、兵器製造・展開・運用能力(モノ)、経済力(カネ)などの複合物であって、それら戦略資源の安定供給が不安視されるようであれば、それ自体が安全保障の脅威=国家の究極最強の行動原理、ということになるであろう。事実、昭和陸軍の思想的コンセプトには「原料の自給自足」があったし、ナチスの「生存圏」も似たようなコンセプトだった。17世紀英蘭戦争や20世紀第一次世界大戦も、大国同士が自らの国家基盤=軍事力の源たる戦略資源アクセスを巡って争ったものといえるのではないか。英蘭戦争であれば、軍事力維持を可能ならしめる富の源たる胡椒取引の商権=制海権をめぐる争いであるし、第一世界大戦も同様に経済的富の源たる植民地、そしてより直接的に軍事力を形成する各種天然資源アクセス遮断の恐怖が、国家衰亡の恐れとして国家エリート、そして庶民の精神まで浸透し交戦意欲を高めたのではないか。太平洋戦争時、「石油の一滴は血の一滴」であって、南洋の資源アクセスを求めて南部仏印に進駐するやいなや、英米の戦略資源基地たる東南アジアへの侵略として米国は「一線を超えた」と認識したと聞いている。

 3の戦略資源がゼロサム的に分布する限り、大国間紛争は不可避ということになろう。16世紀スペインポルトガルが戦争しなかったのは、アメリカ大陸とアジアといった具合に戦略資源基盤を棲み分けたからではなかったか。同様に米ソ冷戦が熱戦に至らなかったのも、1の対話・外交と2の相互核抑止はもちろんのこと、3つ目の条件として違いが石油をはじめとする戦略資源をそれぞれの勢力圏で自給できていたことが大きいのではないか。21世紀前半の最大級の地政学的ドラマは米中関係の進展であるが、蓋し3つ目の条件、とりわけ石油供給の地理的偏在性こそが、最大のボトルネックになると思われる。米中両国が中東地域の石油供給に頼れば、その地域の支配権をめぐるゼロサムゲームになるだろう。石油減耗が進展し供給不足が生じれば、中東の支配は米中双方にとって「死活的利益」となりかねない。そこでは冷静な交渉では解決しようのない隔たりがあり、軍事的抑止が成立していようとも、背水の陣に追い詰められた弱者は「窮鼠猫を嚙む」賭けに出る誘引が生じるし、それを察知する強者側には先制攻撃の誘引さえ生まれる。逆に、米国が北米大陸のシェール(近年失速が目立つが)資源と大西洋の海洋油田(ブラジル、ガイアナ、メキシコ、アフリカはまだ伸び代がある!)で自給して中東依存から脱すれば、米中間は高度な相互抑止と冷静な外交関係によってその対立を乗り越え、平和的(敵対的?)共存を達する可能性があると思われる。

 何れにせよ、戦略資源のゼロサム性を低減していくこと(=それは人間の創意工夫、Engineeringによって達成できる)、必要なものを皆が入手できるようにすることは、平和達成に貢献すると信じる。

石油の平和

「明日はもっと豊かになる」という感覚が共有されている時、平和になるのだと思う。現状に満足しているのだからわざわざ好戦的な態度をとる動機がないし、仮にそう言った闘争に陥った場合に失うもの(明日の繁栄)が大きいからである。動機もなければコストも高い、この構造が平和を作る。一方、その誰かの繁栄が自らの繁栄を食い潰すという恐怖があれば、その恐れが闘争の動機を生んで、現に破滅的な戦争になることがある。第一次世界大戦前夜、成長するドイツにパイを奪われることを恐れたイギリスの好戦性を高めていたことがその例である。いずれかの共同体の経済成長率が鈍化する時、すなわち成長曲線の微分がマイナスになると、文字通り軍靴の足音が響き始めるのである。

 いわゆる安全保障政策というのは、こうした好戦性や敵意が一定程度生じていることを前提に、戦争を回避するための方策を考えるものであろう。そこでは闘争の動機の除去よりもコストの増大に関心が払われる。軍事力という一見邪悪な存在を肯定する根拠は、その抑止力、すなわち闘争コストを高めることで闘争を避けるというロジックに収斂する。

 経済政策(通商を含む)は、豊かさを保証することで闘争動機を除去するという意味で、実は平和政策の礎である。そこには単に繁栄・平和という要素に止まらず、公平・公正という要素が加わるので、その分複雑な動きを見せる。経済格差自体が公正に反するという意味で悪であれば、その是正は善である。しかしそうした福祉政策が政府の非効率と相まって経済成長を阻害すれば、その帰結は冒頭に述べた「軍靴の足音」かもしれない。あるいは、筋悪な社会主義政策の帰結としての「国家破綻」かもしれない。いずれも暴力の跋扈という結末は変わらない。国家リーダーは、こうした内政と外交のバランスを取りながら、自らが依って立つ政治的理念に従って決定を下さねばならない。

 そうした意思決定の根源的制約条件となるのが、FEWS(Food, Energy, Water, Shelter)供給である。FEWSは人間生存の必須要素であるので、これらに欠乏が生じれば経済的繁栄は不可能となり、結果安保政策のオプションも極端に減少するだろう。(例えば原油価格が200ドルになればグローバル経済は崩壊するだろうし、水が決定的に不足すれば戦争は不可避だろう。)FEWS供給の歴史はテクノロジーの歴史であり、イノベーションの歴史でもある。火の発明、鉄器の発明、農耕の発明、帆船の発明、化石燃料の発明、等々。そのいずれも、一夜にしてできるようなものではなく、長い時間をかけて人類の集団学習が繋がった帰結としてある。そこでは国家の支援も重要な役割を果たしただろうが、それが全てではないどころか、むしろそれぞれの分野に執拗にこだわった、Entrepreneur達の執念こそが中心的な役割を果たしたように思う。

 ところでアイデンティティとは、結局信念ということだと思う。常識や雰囲気に流されずに正しいことをやるという信念、その姿勢の総体がアイデンティティだ。世の繁栄と平和に資する行動をするという信念で生きるならば、例えば国民全体が隣国に排外主義的になってもあくまで非戦主義を貫くとか、再配分を求める声が高まる中であくまで古典的自由主義経済政策を主張するとか、あるいはCO2削減を求めて化石燃料に逆風が吹く中でも石油生産に精を出すといったことである。それぞれの選択は当然別の価値を毀損しているが、信念というのは敢えてそういう対立を直視することである。

 FEWSの中でも特にEnergyこそが繁栄と平和の礎であると思う。EROIが減少していくことが究極的な問題であり、マクロトレンドを逆転させることはできずとも多少なりその速度を落とすことは可能だと思う。この問題を前にすれば気候変動は二次的でしかないのではないか。どちらにせよ気候は変動するのであり、台風は威力と頻度を増すし、沿海部は水没の危機にさらされ食糧生産パターンも変わってしまうだろう。それに適応するためのエネルギーこそむしろ必要である。「石油の平和」は多くの価値と相反する挑戦的な物言いであるが、それゆえにアイデンティティとなる信念を形成する。