Peace = Deterrence × Resilience

  平和の条件については本ブログでも過去色々書き連ねてきたのだけど、再度整理すると、「抑止力」と「レジリエンス」の両輪なのではないか、と思う。抑止力とは敵の先制攻撃やそれに準じる挑発行為を思い留まらせるような、こちら側の軍事力・反撃力であり、レジリエンスとは、相手の挑発や攻撃を受け止める忍耐力である。

 抑止力が平和の重要な柱であることはほとんど論を俟たないと考えるが、それだけだと合点がいかない事象が歴史上に多く見られる。第一次世界大戦の英独間対立だって、両国間にはそれに先行する建艦競争から明らかなように、軍事的な相互抑止が成立していたと思われるし、我が先祖たちの太平洋戦争だって、アメリカには長期戦で勝てないことは認識されていた。抑止力は必要条件だが十分ではない、もうひとつ(とは限らないが)の要素は何か、それがレジリエンスではないかと思うのである。事実、米ソ冷戦は度々緊張が高まりつつも直接戦争には至っていない。一般には、歴史上類を見ない高いレベルでの相互抑止:相互確証破壊(MAD)がこれを可能にしたとされるが、同時に、米ソ両陣営において、石油をはじめとする必須資源は自給できており互いに自立していた=レジリエントであった事実も見落とすべきでないと考える。

 レジリエンスは外圧に耐える力と述べたが、ここでいう攻撃とは、必ずしも非戦闘員の虐殺を伴うような本土攻撃の類の極端に苛烈な軍事的暴力とは限らない。むしろ国際緊張が徐々にエスカレートする過程で一般に見られるのは、禁輸等の経済制裁であろう。であれば、レジリエンスと言った場合に専ら議論の俎上に上がるのは経済的レジリエンス、特に人間生存に不可欠な各種財(食料、エネルギー、水、防災インフラ:本ブログではFEWSと呼ぶもの)である。レジリエンス=FEWS生産・維持能力と言っても支障はない。

 WWⅠもWWⅡも、「持たざる国」の暴発すなわちレジリエンス不足こそがルートコーズとは言えないか。外敵の圧力に直面し、「このままでは生存すら危うい」という恐怖が、挑発や戦争行為の危険性を認識しつつも、窮鼠猫を嚙むがごとき賭けに導いた、と。強者による苛烈な圧力をかけられているという点では、現代のイランも同様であると思われるが、今のところイランと米国間には大規模紛争は生じていない。私は、この背景には米国による抑止に加え、イランの高いエネルギー・食料自給率がある、即ちイランはレジリエンスに優れているから戦争を回避できているだ、という仮説を立てたい。

 他方で、何も「自給率至上主義」というわけではない。例えば日本であれば、国土に限界がある以上1億人規模の人口の生存を一国の生産力で賄うのは不可能である。故に同盟が必要になる。ところが、同盟というのは「価値観」などの曖昧なものだけでは続かず、もっと地に足のついたリアルな利益と結びつくものだろう。同盟相手にとっての価値、すなわち抑止力の向上か、レジリエンスの強化か。それらに互いに寄与する時に同盟は繁栄するだろう。

 抑止力というのは合同軍事演習や軍事技術の共同開発がこれに当たるが、いずれも軍隊に紐つく話であり私の生きる領域ではない。相手のレジリエンス向上に資する施策、これはむしろ民間の経済交流から生まれる。相手国におけるFEWSの生産・維持に貢献する取り組み、すなわちエンジニアリング(VT)であり、これが私の領分である。長期的なFEWS生産・維持に係るLifecycle Value: LCVの最大化を地道に実施していくことが、マクロなスケールではその国、地域、同盟圏のレジリエンスを強化する。これがひいては、抑止力と並ぶ平和の柱になるのである。