エネルギー収支から考える未来 オルロフ『崩壊5段階説』を手掛かりに

【以下で述べることはツイッターでダラダラ書いたことを備忘と頭の整理を兼ねて記述するものであって、嘘や飛躍が多々混じっているかもしれないこと先にお断りします。】

 

エネルギー収支、即ち1単位のエネルギー投下によって得られるエネルギー量、言い換えると人類が享受できるエネルギー余剰こそが、文明の形態を規定する最も根元的な要素だと思っている。太陽光、人力、家畜に頼っていた古代や中世は、大航海時代、即ち帆船と航海術のイノベーションにより大海原の風力エネルギーを活用する勢力が現れたことにより、新たな時代へと変貌する。グローバリゼーションが本格化するのだ。人・モノの移動は経済のあり方を変え、社会を変え、政治を変えた。とはいえエネルギー面での非連続な大変化といえば、言わずもがな、産業革命による化石燃料時代の到来である。人口は産業革命を境に急激に上昇を始める。世界経済のGDPも、詳しい計算はよく理解できていないので省くが、エネルギー収支と強力な相関があると言われている。

 近未来を考える上では、このエネルギー収支が決定的に重要だ。第二次世界大戦においてウィンストン・チャーチル卿が石油利用を推進し、戦後、モータリゼーションのさらなる推進と相まって世界的に石油需要が増大した。いわゆるエネルギー革命だ。石油は神の雫だ。エネルギー密度は圧倒的に高く、かつ液体であるため扱いやすい。近年は電気自動車の台頭によりガソリン・内燃機関が端に追いやられている感があるが、エネルギー収支で言えば安価な石油を用いる方が圧倒的に効率的ではないだろうか。ここは詳細に検討してないのであくまで推測。それを差し引いても、電気自動車は電力インフラを前提とする、即ち再エネであれば出力変動とエネルギー密度の低さという課題、化石燃料であれば燃料の採掘と輸送という問題(この活動は結局石油に依存している)があるわけで、電化を進めるにしても、一定程度の石油はやはり必要になる気がしている。

 そんな石油採掘にかかるエネルギーは年々増大している。いうまでもなく、近年新たに発見される油田は中東の陸上などではなく、ブラジルやメキシコ、アフリカの深海だ。アメリカのシェールもあるが、比較的採掘コストは高くしかも短命であるから、見かけ上の生産量は多いがエネルギー収支はイマイチだと思っている。深海での生産は困難だ。いくら大きいとはいえ、海底深くまでガスや水を注入しないといけない。これには当然大きなエネルギーが必要になる。こうやってギリギリ支えられているのだ。よって文明が享受できる余剰エネルギーは年々減少しているのであり、いわば、赤字経営が続き、資産を徐々に食いつぶしているような状態にある。

 この状況が示唆する未来はいかなるものか。ドミトリー・オルロフ『崩壊5段階説』が興味深く分析する。曰く、まずは金融が崩壊する。なぜか。現代のグローバル資本主義は無限成長を前提としていることは明らかである。企業は年率何%の成長なのか、投資利回り(=つまり成長率)はどうか、マクロ経済の目標は?2%インフレ、つまりこれも成長を前提としている。経済は右肩上がりに成長していくというのが現代資本主義の大鉄則であり、これが崩れれば誰も投資などしない。つまり経済が回らない。そして、経済成長は余剰エネルギーの増加に他ならないならば、エネルギー収支が急激に悪化することが予想される近未来において、グローバル資本主義は絶望的な崩壊危機に直面すると言わざるを得ない。

 オルロフは、金融崩壊後は商業の崩壊がくるという。確かに、金融に関わらない商業などほぼ皆無であり、スーパーマーケットを建設するのだって金融借り入れが必要で、農家だって借金することを考えれば、当然だ。このように金融・商業が壊滅的被害を受けた時、世界はどうなるのだろうか。具体的には、政治はどうなるのか。これが今一番気になっているテーマだ。

 エリック・ホブズボームは、市民革命と産業革命を二重革命と称した。私は、化石燃料産業革命を親として、民主主義=国民国家グローバル資本主義の双子が生まれた、という理解をしている。産業革命によりエネルギー余剰が増大し、その余剰を効率的に蒐集した勢力=産業ブルジョワが誕生した。これがグローバル資本主義をドライブしていく。パワーを持ったブルジョワは、アンシャン・レジームにおいて不当にも彼らの権限が制約されていることに腹を立て、政治参加を求めて市民革命を起こした。市民革命というと「貧しい農民のような中世世界における被抑圧者」が蜂起したように思われがちだが、単に金持ちが貴族を倒した、というだけでしょう。(金持ちが新しい貴族になっていることは、現代を見れば言うまでもない。)ブルジョワは、自分たちの産業を最速で成長させるには、民衆をうまくトランスフォームする必要があることに気づいていた。日の出と共に起き、日没と共に寝る、ような牧歌的生活をされては困る、定時に起き、工場に行き、遅くまで働く、ロボットのようにこき使いやすい労働力を得るにはどうするか、というところで、国民への義務教育というアイデアが出る。同時に政治哲学の面でも、中世的社団といった中間団体は一般意志の成立を妨げるとかなんとかで、ギルドや農村共同体、宗教団体を徹底的に潰し、近代国家の元で一人一人が平等、自己実現を目指すべきというトレンドができた。ブルジョワにとって使いやすい労働者を作るということと、一人一人が自己表現・自己実現・自由を目指すという政治的・思想的お題目が見事に一致し、国民国家が作られた、ということではないか。

 で、近未来、即ちエネルギー収支減少局面で世界はどうなるか。18世紀、19世紀に起きた変化と逆のことが起きるのでは、というのがとりあえずのイメージ。つまり国民国家は崩壊か衰弱し、村落・都市共同体、職業団体、宗教団体といった社団が復活し、福祉サービスや精神的支柱を提供する、そして世界秩序は中世的帝国に再編される、という流れである。

 なぜ国民国家は持続しないのか。それは資本と国家のベクトルが完全にずれてしまったからである。近代初期においては、資本家と政治エリートは、目的に差はあれど態度は一致していた。両者とも富国強兵と殖産興業を目指した。現代では両者は微妙な関係だ。グローバル資本は国境を越え、タックスヘイブンで課税を回避する。国家は税収を確保するために法人税を上げることができるが、すると資本が逃げて行く。資本家に優しい政策を取れば、再配分を求める民衆の突き上げを受けるという、苦しいジレンマに陥っている。ブラジル大統領選をウォッチしていて、この姿が手に取るようにわかった。海外投資家に有利な政策をとる経済右派が優勢になると株価が上がる。再配分を主張する左派が有利になると株価が下がる。国民の世論調査こそが唯一無二の指標であるはずだったが、実のところ、グローバル資本主義による「審判」がリアルタイムで行われているのだ。結局ブラジルは経済右派のボルソナロ氏が勝利、海外石油メジャーは嬉々として投資姿勢を強めている。だがリスクはある。再配分の不足と、一部経済エリートに富が集中して行く姿を見て、民衆が蜂起するかもしれない。事実、ペトロブラスディーゼル価格をあげたことで、トラック運転手がストライキを実施、経済が半分麻痺するという事態が今年5月に発生したのだから。

 ただし、今置いている前提は、エネルギー収支減少によって資本の力が弱まる、ということだった。資本主義の力が減れば、かつてのように、国家と資本が一致して強力な国民国家が実現するのではないか・・・私の考えは、NOである。

 思うに、民衆が国民国家を受け入れたのは、経済のパイが急速に成長し生活が豊かになる中で、社団に頼るよりも、国家に頼った方が効率的・効果的に成長を享受できると感じたからではないだろうか。国家、例えば財務省のエリートが税収の使い道を「合理的」に考え再配分すれば、各地域の社団がちまちまやるよりも、よっぽど効率的であることは恐らく事実だ。一方、税収は畢竟グローバル資本の流れから掬い取るものであって、そのパイが減って行く中では、国家歳入は減少する。日本では高齢化も相まって、例えば年金システムについての信頼性がどれほど国民内にあるのか、甚だ疑問であるように、「国家が富を回収して配分する」行為に信頼が置かれにくくなるだろう。どうせ返ってこない年金を払うくらいなら、顔の見える共同体で相互扶助の仕組みを作った方が、心理的にも安心感があるし、実際、その方が生き残りやすいと思う。これは中世的社団の復活に他ならない。南青山の児童相談所騒動が示すように、一部の富裕層の倫理観からしてみれば、もはや「国民という同胞」のための再配分などは迷惑でしかなく、仮に国家が暴力でそれを強制すれば、本当の意味で資本と国家の戦争となり、恐らく資本が勝つだろう。トランプ大統領が誕生した際、カリフォルニア州が独立するといった動きが一部に見られたが、これは極端にしても、富裕層が民兵を雇って自衛コミュニティを作るというのは全く不思議な動きではない。

 要するに、経済のパイが縮小する局面という殺伐とした時代にあっては、国家という大きな機構は時代遅れの遺物となり、もっと小さな共同体に人は信頼を寄せるだろう。富裕層は壁を作って閉じこもるだろう。政治倫理的には富の再配分が課題になるが、地縁、血縁、宗教、職業といった面での社団が一定の救済になることを願いたい。また、少々荒っぽい議論だが、貧困層がたまりがちな都市秩序を維持するために、都市富裕層が貧困支援に合意するという可能性はあると思う。何れにしても、都市や農村といったレベルで調整が行われるのであり、国民国家という巨大システムの出る幕はあまりない。

 ちなみに低エネルギー世界で現在の人口を現在の生活水準で維持することは確実に不可能であるから、冷徹な言い方をすれば、人口が急減する事象がおきないと辻褄が合わない。それは内戦か戦争という形を取り、そこに天災や疫病がかぶさるかもしれない。この天変地異が、国家の威信失墜の決定打となると見ている。悲観主義者と言われるかもしれないが、21世紀中葉は、本当にカオスな時代となるのではないだろうか。

 最後に、「崩壊後」の国際関係も考えておきたい。国際政治や国際関係論はほとんどがウェストファリア以降の国民国家主権国家並存体制を前提にしているのだが、国家衰弱後はこの前提が崩れ、より中世的な帝国的秩序となるだろう。国際政治学における主たるテーマである戦争と平和、勢力均衡といった理論は、「戦争がない世界が善い」という認識があるように見えるが、戦争が「違法」になったのはここ100年程度の話であり、その理由は、航空機や爆弾の普及、及び国家間の大競争という時代では前線と銃後の区別なく総力戦が行われ、その破滅性は目を見張るものがあり、武勇を見せつける場としての中世的戦争観が転換したことによるものと思うが、幸か不幸か、エネルギー収支が減った世界においてはこのような総力戦は起きようがないと思う。

 都市と農村という有機的ネットワークの中で、当然衝突もあり、流血もあるだろうが、とはいえ一定の地域がなんらかの思想によってまとまる世界、中世における神聖ローマ帝国オスマン帝国、日本の天皇幕藩体制のような秩序になるのではなかろうか。きっと、宗教が力を盛り返してくるはずだ。神は一度死んだが、また蘇るだろう。

 「新しい中世」という概念が提示されてからしばらく立つが、一見、世界は近代に逆戻りしたかに見える。が、それは恐らく最後の反動であり、近代を支えた根本原理である高エネルギー収支が終焉に向かう今、改めて、中世秩序の復活というアイデアを検討する価値があると思われる。