安全保障概念の再整理:国土/エネルギー安全保障のための「競争」と「レジリエンス」

 安全保障=生存必須財(エネルギーを始めとする各種資源。食糧、水、医薬品なども入るが希少性や偏在性の観点からエネルギーに特に注目することとする)の安定供給+領土内安全維持(軍事力による外敵抑止・警察力による治安維持)、と定義できるだろう。前者に注目する場合はエネルギー安全保障、後者に注目する場合は国土安全保障と呼ぶことにする。なお言うまでもなくロシアのような純エネルギー輸出国においてエネルギー安全保障と言う概念は議論されないであろう。(そこで議論されるとすれば国土安全保障の実現手段としてエネルギーという経済力をテコにパワーを行使するエコノミック・ステートクラフトであろう。)

 安全保障を実現するためには「競争」と「レジリエンス」の二種類があると思う。競争というのは国際社会において自国が保持するパワーを行使して安全保障を実現することを指すが、両者がこれを実行すればパワーのぶつかり合いになるので競争と表現することができる。競争の特徴は、相手の能力を毀損させることで相対的に自己優位を達することを意図する点かと思う。相手を叩くと言う意味で攻撃的性質と言える。

 競争に用いられるパワーは大きく分けて三つある。一つは軍事力、もう一つは経済力(いわゆるエコノミック・ステートクラフト)、最後は規範力(いわゆるソフトパワー)である。国土安全保障の文脈で言えば、敵国の軍備を先制攻撃で破壊することなど(イスラエルはかつてイランの核施設を隠密空爆で破壊した)、あるいは敵の兵站を軍事力によって破壊する行為などは軍事力を用いた国土安全保障の実現といえるだろう。実際に破壊しなくとも、十分な軍事力を見せつけることで拒否的抑止や懲罰的抑止が機能して、敵の能力が危険水準にあってもそれを使用する意図を挫くことはできる。あるいは、軍備の高度化に伴って必要になる先端技術の提供を阻止することで敵の軍事力を削減しようとする行為は経済力をテコにした国土安全保障の戦術と言える。米国は太平洋戦争前夜、日本への石油供給の停止と禁輸網を構築したが、これは軍隊の兵站を断つことによって軍事力自体を削ぐことになったという意味で経済力を用いた米国の国土安全保障の実現手段となっていたと言える。

 エネルギー安全保障で言えば、エネルギー供給地域に軍事力を展開して政治的影響力を行使してコントロールしたり(=米国が湾岸地域に実施)、当該地域から消費地までのシーレーンに強大な海軍力を展開して輸送路を保護することは軍事力を用いたエネルギー安全保障実現の手法である。産油地域との関係を強化するために経済支援や投資、エネルギー生産技術の提供(例えばカタールLNG輸出能力は主に日系企業によって構築された)といった経済的手法を用いることもできる。なおソフトパワーの存在は認めつつも、私は(軍事・エネルギー)安全保障に対して果たす役割に懐疑的なので省略する。

 以上、軍事力及び経済力を用いて国土・エネルギーの安全保障を実現する手法を概観したが、敵対する2国以上が同時にこれらを行なったならば必ずエスカレーションが生じることになる。太平洋戦争の例に言及したが、米国の禁輸に対して日本は国土・エネルギー安全保障の実現を目指して南洋に軍事力を投射したのであって、これは経済力による競争開始が軍事力による競争にエスカレートした事例と見ることができるだろう。また現代において湾岸地域をエネルギー及び国土安全保障の要と見る米国に対し、中国も同様に当該地域をエネルギー・国土安全保障上の要衝と見るならば、そこをめぐる熾烈な競争が予想され、経済力による応酬が(いくら核によるMADがあるとは言え、安定ー不安定パラドクスにより)通常武力による応酬にエスカレートする可能性は低いとは言えない。

 そこで焦点になるのが、安全保障実現のもう一つの方法論「レジリエンス」である。「競争」が敵との正面対峙であるならばレジリエンスは退却、逃避である。競争は攻撃的と述べたがこちらは防御的、相手を落とすのでなく自己を高めることに主眼がある。

 日本のエネルギー安全保障にとって中東及びそこからのシーレーンは死活的に重要だが、仮に中東依存率が10%程度だったならばどうだろうか。それら地域を敵国が掌握したとしても、直ちに国家存亡の危機ということにはならない。「競争」に「負けてもどうにかなる」という備えが結果的に競争のエスカレーションを防ぐことになるだろう。

 エネルギー安全保障実現のためのエネルギー・レジリエンスはいくつかのレベルから構成される。究極的な理想としては国内自給であることは論を俟たない。海外依存が不可避であれば、エネルギー産地の多様化及び十分な生産量の確保(すなわち、エネルギーの「コモディティ化」)が重要になる。程度の差はあれどコモディティ状態が維持されていれば、エネルギーは市場で調達が可能である。つまりカネで買えるということであり、よっぽどの経済危機なりで金欠にならない限りは生存財を入手できるわけである。もちろんこれは大きな方向性・理論上の可能性という話であって、即座に日本の原油中東依存率が下がったりするとは思えない。けれども中国の原油輸入先第3位がブラジルになったりと、原油=中東という呪縛を解くことは決して不可能ではないと考える。なお原油の供給可能性自体に陰りが見えつつあるという指摘もあるが、仮にそうなれば世界中のエネルギー・国土安全保障が危機に晒されることとなり戦争を含む政治的混乱が多発するだろう。実現可否は置いておいて(少しでも)エネルギーをコモディティ状態に据え置くことが平和実現に資するものだという点は変わらない。

 エネルギー・レジリエンスのもう一つは消費の削減である。原油を一切使わない社会になれば中東やシーレーンに一喜一憂することもないというわけだ。こちらも理論上の話で即座に実現するはずもないのだが、例えば自分は都市モビリティとして電動自転車(e-bike / e-cargo bike)といったものを普及させることで多少なりともエネルギー・レジリエンスが高まると考えている。

 エネルギーのコモディティ化や消費削減によるエネルギー安全保障の実現は視野に入るが、国土安全保障はどうだろうか。そもそも国土安全保障には軍事力の維持が必要条件となり、その軍事力の維持に必要な要素とは、財政的余裕、軍事用途原料(レアアースなど)、軍事技術といったところだろうが、これらについてはエネルギーと同様にレジリエンスを観念できよう。昨今の中国が見せる「ハイテク自給戦略」はまさにミリテク・レジリエンスによる国土安全保障の実現といえる。ただし領土紛争のようなケースではその領域での軍事的優位をめぐる競争となり必ず優劣がつく。この「ゼロサム性」が国土安全保障の特徴だろう。