サウジアラビア:庇護者はアメリカから中国へ

 経済戦後レジームはドルと石油に彩られた。ドルの中心はアメリカだが、石油の中心は中東、とりわけサウジアラビアであった。サウジのガワール油田は日量500万バレルを吐き出すが、これは地球全体の生産量の5%強を占めるという尋常ならざる規模である。サウジ全体で見れば、約10%のシェアを誇る。サウジの安定は世界経済の安定を構成し、それはアメリカの繁栄の基盤をなすものだった。故に、米軍は常に中東を意識し、シーレーンを防衛してきた。

 サウジアラビアがその歴史上最大級の転換点にあることは明らかである。その理由はよく指摘されるように、短期的には低迷を続ける原油価格のせいである。シェール革命による需給バランスの乱れと言われるが、アメリカのシェールオイル産出量が500万バレル強ということを考えると、そこまで決定的な要因とも思えない。むしろ、2010年代前半の資源バブルが明らかに行き過ぎていた、そしてそこにあぐらをかいて肥満体質を築いてしまったことが、今のサウジの苦痛の根本原因だろう。資源バブルは中国の爆食と言われるが、要は中国経済の成長性が過大評価されたと言って良いのではないか。無限に成長する中国は、石油も無限に飲み込むだろう、だから今のうちに買っておく、こんな心理が金融市場を席巻し、ファンダメンタルズとは無関係な価格高騰が引き起こされた。

 現在の状況で、「適正原油価格」すなわち純粋ファンダメンタルズの視点で、需要ぴったりの供給を確保する採算ラインは、1バレル当たり60ドル程度ではなかろうか。これは全くの肌感覚ではあるが、シェールも深海も技術革新と最適化がここ数年で急激に進んでおり、5年前では80〜90ドル程度だったのがここまで下がった、という認識を僕は持っている。つまり、一昔前のバレル140ドルなどというのはまさに乱痴気騒ぎも良いといころ、と言った価格だったわけだ。実態と無関係に、「期待」にしたがって価値が暴騰する、これは資本主義の本質的な営みであり、原油暴落は、リーマンショックと並んで、その「無限成長神話」に終わりを告げるものと言えるだろう。いわば、リーマンショックと逆オイルショックによって、「ドルと石油」という戦後レジーム、成長神話は終わりを遂げたと思えてくる。

 蜃気楼が消え去った後で、砂漠のかの王国はもがいている。レンティア国家にとって原油価格の低迷とシェア逸失は死刑宣告と等しい。ビジョン2030では美しい将来像が描かれているが、石油のない灼熱地獄にあるものといえば、イスラムの聖地だけだ。切り札とされたアラムコIPOにも暗雲が立ち込めているというではないか。

https://www.ft.com/content/42b521c0-b028-11e7-beba-5521c713abf4

ビジョン2030を描いたのはマッキンゼーというのは有名な話だし、海外市場での上場に際してはJPモルガン始め、アメリカの金融・ビジネスエスタブリッシュメントががっつり絡んでいた。その海外IPOが遅れている一方、株の取得相手として中国が急浮上しているとFTは報じている。これはいかにも象徴的ではないか。また、今年前半には以下のようなニュースも出た。

www.bloomberg.co.jp

 戦後経済レジーム、あるいはパクス=アメリカーナが終わりを告げ、閉じた帝国、すなわちEU-アフリカ圏、中華=ユーラシア圏、アメリカ圏の三大帝国を中心に秩序が再構築されるにあたり、サウジを始め中東は中国の影響下に入る。アメリカ大陸はほぼ確実にエネルギーの需給を達成できるし、電気自動車の推進と豊富な再エネ、石炭、そして地中海アフリカの天然ガスに支えられたEUは、中東の石油を以前ほど必要としない。中東の存在意義が輝くのは、中華帝国においてである。中東は一帯一路で中国に両手で抱え込まれる構図になるだろう。アメリカが描いたサウジの未来が現実感を失う一方、中国が描く中東像は現実的で生々しい。中華帝国の石油蔵としての立場になれば、かつての輝かしい王国像ではなくなるかもしれない。ただし、ISのようなゴーストに蝕まれ、破綻国家に堕すよりはよっぽどましではないか。

 アメリカの庇護のもとオープンマーケットを信奉したサウジも、中華帝国の一員となれば、市場との関わり方を変えるかもしれない。日本は未だに中東に石油を異常なほど依存するが、これはやはり問題だ。すぐにできることではないが、石油需要を減らすべく電気自動車を推進すると同時に、調達先をアメリカ大陸に分散すべきだろう。特に南米は、エクソンによるガイアナの巨大油田発見に象徴されるように、まだまだポテンシャルがある。もちろん、権益を取れば良いのではなく、生産量の増強に貢献するような背策を打つべきだ。(その結果として投資→権益取得、ということであれば問題はない)。

 いずれにせよ、サウジと中国の関係は注視したい。

 

現場主義と忖度がもたらす貧弱なマネジメント体質

 よく日本型組織は現場は優秀だがマネジメントシステムの構築や戦略性が欠けていると言われる。半世紀前の敗戦も同様の文脈で説明することができる、という本もある。僕は日本企業にいるが、訳あって日本人はマイノリティという特殊な環境で数ヶ月働く機会があったのでそこで感じたことを記そうと思う。

 まず、確かに現場は優秀というのは納得感がある。欧米(シンガポールやインド含め)下っ端は大したことがなく、マネージャーは優秀という階層構造が明確に見えるが、日本のそれなりの企業なら、満遍なく社員が優秀であるケースも多い。中でも一流企業と呼ばれるような組織なら、真ん中より上の層であればまず(英語力は置いておいて)世界で十分戦える基礎能力があると確信できる。だが、マネジメントになると「ダメな日本企業」「ダメな日本人管理職」になってしまうのはなぜだろう。まずは具体的な体験から入っていこう。

 僕が勤務したのはシンガポールだったが、「日本人的な態度」みたいなものが彼女ら(女性が多かったので)に共通理解としてあるようで面白かった。上司には口答えしない、上司が来ると立ち上がって話を聞く、納期は絶対守ると言った、社会人としてはある程度常識として教わってきたこういう姿勢は、彼女らにしてみればいわゆる日本人的な振る舞いに映るようだった。一方シンガポール人は妙に上下関係がフラットで、欧米的には当たり前なのかもしれんが、上司にも口答えするし、納期だって、平気で無理と言ってのける。むしろ黙って働く日本人を不思議がって見ているくらいなのだ。こうやっていちいち反論してくるから、上司も部下をなだめるために頭と口を使う。また、平気で転職していくから、モチベーションマネジメントにも気を使う。日本人は上司に従順なので、上司は多分楽だろう。というか、部下の管理をメインミッションとせず、いつまでもプレイヤーとして輝き続けることを求めている人が多いのではないか。

 僕の仮説は、日本人のこういう「サムライ的労働観」が、貧弱なマネジメントの根底にあるというものだ。もっとザクッというと、上司から見ると、部下が従順で優秀すぎるために、「使えない奴をいかにうまく使い倒すか」「使えない奴がダメになることを見越していかに全体工程をマネージするか」と言った発想を持つ機会がほとんどない、ということだ。

 マネジメントを一応詳しく見ておこう。僕はエンジニアリングの業界にいて、自分は経営管理の業務に関わっているので、若造なりにマネジメントとは何か考えてはいる。工事のマネジメントなら、所定の品質で、予算と納期内に作業を完成させる必要があり、プロマネはそういうKPIをひたすらトラックして、問題を予知し、リソース配分を変えて対処する。経営管理、例えばファイナンシャルコントロールなら、長期ビジョンに沿った中長期計画からカスケードダウンされた予算を作り、それに対する実績、予測を立てて、乖離が見られるようなら策を考えて実行する。リスクマネジメントなら、網羅的なリスク項目に対する対応状況に応じてモニタリングにリソースを割いたり、対策のためのプログラムを立案実行する。全部、企業の「本業」、例えば設計図を書くとか、溶接するとか、ものを運ぶとか、客とネゴるとか、そういうことではなくて、それを監督・管理するのがマネジメントである訳だ。

 こういう見てみると、マネジメントは動かされる人間に対する一定の不信感、ある種の性悪説に基づいた発想ではないか、と思えてくる。エンタープライズリスクマネジメントの導入では特にそれを感じた。従業員が皆完璧に仕事をしていれば、不正など絶対に起きないし、経営陣はしっかり戦略を考えているから、ポートフォリオを間違えたりもしない。ERMとはみんながやっていることをなぞるだけの無益な作業ではないか、そう感じたこともあった。だが、事実粉飾は起こるし、競争力がいつのまにか失われたり、まんまと投資で失敗したりもする。やはり完璧はないという穿った姿勢を持って仕組みを作っていくのは重要なんだと思う。

 ここで、サムライの話に戻ろう。サムライは忠誠を誓い、自己研鑽に励み、身を粉にして働く。現代日本企業では、上司になるのは皆元サムライだ。だから、部下が自分を裏切るとか、仕事をサボってるとか、そういう発想にはなりにくい。良くも悪くも信頼関係ができてしまっている。ここには、悪い意味でなあなあな関係性があり、マネジメントの前提としての性悪説、緊張感が欠如している。忖度され続けた上司は、部下の本心など見抜けないし、部下の行動をコントロールすることなどできないのだ。

 こういうと、日本はやっぱりダメで、欧米がいい、という論調になってしまうのが惜しい。現場が分厚いのはどう考えても競争優位になるはずだ。まだ言語化できないが、短絡的な欧米礼賛とは一線を隠す、独自の組織論・管理論を構築していきたいものだ。

 

エネルギー安保再考 〜「権益主義」批判〜

 エネルギー自給率が100%以上の国は、エネルギー安保など考えなくて良い。自給率が下がるほど、また一人当たりエネルギー消費量が多いほど、その重要性は高まってくる。日本ほどこの重要性が際立つ国もそう多くあるまい。

 経産省の方針はかなりリアリスティックで、日本は無資源国という前提に立ち、供給多様化と省エネを二本柱とする政策だ。電力という意味では天然ガスの供給元はかなり多様化している。原子力が失速しているのが痛手だが、ソーラーなんかもそれなりに増えてきた。省エネは言わずと知れた得意分野である。

 一方で、石油のセキュリティはかなり貧弱な印象がある。供給元は依然として8割以上が中東だ。中国はアンゴラやブラジルからも相当量輸入しているのと対照的である。また、「自主開発比率」「日の丸油田」といったよくわからない因習に浸っている点も理解に苦しむ。蓋し、石油のセキュリティで重要なのは二つ、一つはグローバルレベルでの需給バランス、そして純軍事的なシーレーン防衛である。「権益」というのはこのどちらにも属さない極めて中途半端な政策目標だ、というのが僕の仮説である。

 なぜか。「権益」とは石油会社の油田、あるいは原油に対する権利である。その割り当て分は自由に取引して良いということなので、例えば日系企業が20万バレル相当の権益を持っていれば、日本国民は、その日系企業が経済原理ではなく国民の紐帯、愛国心で持って日本人に原油を販売してくれるとう前提の上で、一定程度安心できる、という理屈である。ここで疑問が湧く。平時において、原油購入企業たる出光が、ロイヤルダッチシェルから原油を買うのと、japexから買うのとで何が違うのだろうか。もっとも、平時であれば原油市場から買うのだから、どこの誰がどこで掘ったのかなどほとんど関係ない。原油の質と、価格だけが物を言う、「商品市場」の話である。では、「戦時」はどうか。日本とインドネシアが開戦した。インドネシアには日系企業がかなりの権益を保持している。インドネシアの初手は、権益の接収か、禁輸だろう。これで権益は無と化した。終わり。敵対国に権益を保持することほど愚かなことはないのである。(無論インドネシアは敵対国ではないが。) 

 では「平時と戦時の間」はどうか。INPEXはイランのアザデガン油田に大規模権益を有していたが、イラン核問題による米国の対イラン制裁の流れの中で、手放した。どれだけの関係者が悔し涙を流したのだろう、だがこれが現実である。国際関係の中で、権益など空前の灯火なのである。国内政治でも同様だ。シェール革命で原油生産に余裕が出たアメリカは原油輸出を解禁したが、需給がタイトになればすぐ禁輸する可能性もある。その時、外国企業が権益を持っているから、その分は禁輸の対象外です、となるのだろうか。トランプ政権を見ていると、とてもそうは思えない。

 このポイントは調査不足なので、以下は推測になる。例えば権益を持つ日系企業に、日系買い付け業者が提示する倍の額を提示した中国国営業者がいたとして、権益企業はどちらに売るのだろうか。中国に売れば売国奴と呼ばれるだろうが、日本に売れば株主への背徳行為である。日系業者が権益を取得する際、政府と何らかの取り決めをしているのか、あるいは企業の判断に任されているのか、調べて見たいところだ。(INPEXのような会社は半官的な部分があるので例外)ところで、ここで政府からの縛りがないのだとしたら、いよいよ権益保持には意味がない。戦時でもない限り、結局は札束の殴り合いなのだから。面白い逸話がある。石油ショックの時、イギリス首相はBPに対し、優先的にイギリスに原油を売るよう要請したが、BPは拒否した。どこかで販売を拒否すれば、資産の国有化など中長期での不利益を被るからだ。需給タイト時に日本がBPから原油を買おうとして、BPが売ってくれないがために日本がBP資産をどうこうできることはないが、オイルメジャーはオープンな市場と資本主義を信奉する。彼らは自国に優先的に売るといった発想はなく、資本主義に則り金さえ出せば買えるだろう。この問題は、需給が逼迫した時に、原油のオープンマーケットは崩壊するのか否か、という問題とも言い換えられる。

 崩壊するならば、権益には一定程度の意味があると言いうる。市況商品でなく戦略物資となった以上、「所有権」を主張しておくことは肝心だろう。崩壊しないなら、繰り返すが権益には意味はない。値段は高騰するが、それだけだ。(70年代オイルショック時に示唆された歴史的事実は、後者である)価格が高騰すれば生産量は増えるものだ。数ヶ月で増えはしないかもしれないが、それくらいなら備蓄で対応できる。1年あれば、かなり増えるだろう。原油市場にはそういう逞しさがある。(そしてこれこそがエクソンの信条だ)もっというと、こうして供給地の多角化が極限まで進んだ先には、「帝国」時代の未来像が垣間見える。アメリカ大陸、ヨーロッパ・アフリカ大陸、そして中央ユーラシア、それぞれエネルギー供給と消費が完結する帝国単位を形成しうるのだ。オープンマーケットの究極形態は、逆説的に、閉じたマーケットになるのかもしれない。

 いよいよぐちゃぐちゃになってきたのでまとめよう。オイルのオープンマーケットの強靭性というのが一つのキーだった。強靭であるなら、需給がタイトになってもいつかまた緩くなるので、結局権益を主張するより、全体の生産量を増やすのに貢献する方が重要だ。強靭でないなら、少ない資源の奪い合いを少しでも有利にするべく、権益を主張しておくべきだろう。そして歴史が示すのは、オイルマーケットは想像以上に強靭であるということだ。これが、僕の主張する第一の要点、「グローバルレベルの需給」の話だった。

 もう一つある。仮にグローバルで需給が均衡していても、シーレーンが脆弱だと困る。中国のパラノイア的拡張主義の背景にはこれがある。(これは「帝国」形成の主要なドライブだ)つまりシーレーンをアメリカ海軍に握られていることが、戦略的脆弱性だという認識だ。これは正しいと思う。権益獲得に邁進するのは正しくないが、シーレーン確保のために「一帯一路」を進めるのは全く持って正しい。来るべきポスト近代において米軍が後退し、中華艦隊がそこを治めるならば、日本の戦略的脆弱性は増すだろう。

 これはつまり、純軍事的意味での「輸送の安全保障」だ。敵地をタンカーがのこのこ通るのは心もとない、だから安全圏から石油を持ってきたい、というごく当たり前の話だ。中東で権益をとって喜んでいても意味はなくて、シーレーン防衛の議論があって初めて中東の意味がある。そこをもっと意識すべきだろう。

 よって結論づけると、エネルギー安保において第一に重要なのは、グローバルなオープンマーケットを維持すること。そのために技術革新、投資の確保、産油国の政治的安定が重要となる。(日系企業が権益を持つのも、所有権を得たという意味でなく、投資により生産量向上に貢献した、という意味において本当の意義がある。つまり極論すると、中国企業のプロジェクトに資金援助するくらいの気概があって良い。ま、ないだろうけど。)また産油国のインフラ開発のためにjicaなんかが頑張るのは大変意義深いだろう。僕は民間企業にいるが、技術革新では企業が主役なので、背負う使命は大きいというわけだ。

 第二に、これは各国異なるが、輸送の安全保障を実現すること。日本であれば南シナ海の安全確保という文脈で集団的自衛権の話になるし、中国では「一帯一路」がそれだ。これはドンピシャの地政学の話になる。

 以上を踏まえて日本のエネルギー安保政策はどうあるべきか。まず「自主開発比率」などというKPIは無意味だ。それより日本政府・企業による上流投資額、それによって支えられた生産量のようなものを意識すべきだ。とりわけ価格が低迷し投資額が低調になっている今のような時こそ、こういう指標が意味を持つ。(フリーライドの問題が生じるので政治的には困難かもしれない。国民に説明するのも根気がいるだろう)

 もう一つは「輸送の安全保障」のため、中東以外を開拓することだ。ロシア、アフリカ、南米など、ホルムズ海峡とマラッカ海峡を回避するルートはいくらでもある。特に南米は伸び代が大きく、ここの生産量が高止まりしてくれれば、オープンマーケットの強靭性を高めてくれるだろう。

 

 

 

Fire is not dead. 『パリ協定で動き出す 再エネ大再編』井熊均・瀧口信一郎 日刊工業新聞社

エネルギー三大市場としてのEU、中国、アメリカは「ファイアー&ウィンド」すなわち石炭・天然ガスによる火力発電を中軸としつつ、2〜3割程度風力を中心とする再エネが占める、という構図が一般的になるだろう、という。技術的制約から再エネ一本になることはない、少なくとも系統連結を前提とする上では、というのが筆者の主張で、分散電源など系統のドラスティックなイノベーションがあれば話は変わるという。もっとも、それは近いうちに実現するとは思えないし、需要家の環境意識にかなり依存する点で、政治的リアリズムに立つ僕としてはちと夢想的すぎるように思える。ということで、Fire is not dead.ということらしい。

 EU、中国、アメリカというのはいわゆる来るべきポスト近代の「三大帝国」と合致するのは偶然でもなんでもなく、要はでかい市場と一致しているというだけ。「その他諸々」に入る中東アフリカ、南・東南アジア・中南米は「ファイアー&ソーラー」だったりと、バリエーションがありうるという。重要な点をざっくりまとめるとこんな感じ。

 ポイント別で面白いのは、再エネ時代=「地理の逆襲」ということ。僕は以前国力の要素について描いた時、「国土」や「資源」をまとめて「国土の質」としたが、これまでは資源が埋まっているかが重要だったけど、今後はこれに加えて風が吹くか、日照量が多いか、だだっ広い土地があるか、遠浅の大陸棚があるか、といった地理要素がエネルギー事情に作用する、ということになる。永遠に、地理からは逃れられないのだ。

 また、座礁資産として一部の意識高い連中からボロカスに言われていた火力発電も、死ぬどころかますます重要性が増す、もっというと、調整電源として送電網の一部としての性格を強めるというのは面白い。再エネ導入量と同じだけ、火力の調整が必要ということらしい。

 産業論という意味では、風力はタービン供給者の寡占が進み、中国勢の躍進がほぼ確実。オペレーターにはオイルメジャーが参入し、豊富な資金が流入するとみられる。ソーラーにおいては中国勢の一人勝ちで、パネル市場はチャイナ一色になる。日本はというと、火力の発電技術は高いものがあるし、電力会社も技術水準が高いから、風力はダメでも火力市場で存在感を示せるだろうとのこと。まあ、火力タービンではMHPSが頑張ってるし、JERAもできたし、ある意味電力分野で唯一期待できる領域かもしれない。引き続き日本勢には頑張っていただきたい。

 結局、再エネ100%には多分ならず、かなりの割合で火力が残るということは、一次エネルギー源としての化石燃料三銃士、石油石炭天然ガスの戦いはまだまだ終わらないということでもある。石油は電気自動車の登場に左右されるので毛色が違うが、石炭とガスは真っ向勝負だ。まだまだ石炭の優秀性は高く、ガスが石炭をリプレースするには時間も努力も必要だろう。シェール革命やFSRUは明らかに対石炭戦争の最前線にある。5年後以降、LNG需給がタイトになった暁には、FLNGが再びリングに舞い戻るだろう。

 これはつまり、日本の戦略的脆弱性は一向に解消されないということを意味する。再エネもだめ、石油天然ガスも依然海外頼りという状況は変化しそうにない。火力発電システムの国際市場で存在感を示すのは有効だが、そんなので足りるのだろうか。自国資源の開発を究極目標に掲げつつ、まずは世界の石油ガス市場で戦える産業群育成、中でも成長分野のオフショア産業確立が現実的かつ戦略的な方向性に思える。海外における資源開発における「貢献度」を高めることが、資源安定確保の要諦だからだ。ただ金を入れるだけでは(資金規模によるが)代替可能性がある。技術を提供するクラスターが存在すること、それが当該資源国にコミットすることで、実施的なタイが生まれ、供給安定性に資するのだ。実施的タイのないただの資金投入と権益確保は非常に脆弱だと思う。つまり、技術投入の伴わない「資源外交」は砂上の楼閣だというのが僕の仮説だ。

 とまあ、毎度のように話しが逸れたが、再エネの趨勢を冷静に分析した良書だと思う。

 

 

 

 

シンガポールとイスラエル

 繰り返すようだが、僕はイスラエルに格別興味を持っている。学生時代にみたイスラエルは、僕が考える「国力」や「国家の戦略」といった見方のバックボーンを形成している。社会人になってからは、半年弱シンガポールに滞在する機会があって、植民地支配の残滓を感じながら、南洋の歴史に思いを馳せた。そこでもやはり国力といったことを考えた。(出張のくせに暇人か、というのはなしで。)

 共に国家面積は極めて小さく、資源も乏しい。人口も少なく、周囲にはアグレッシブな大国・ミドル国がひしめく。厳しい環境だ。同時に、両者ともに独特の存在感を国際社会に放ち、安全保障、経済共に高い水準を保っている。

 前回触れたモーゲンソーのフレームに則りながら、それぞれ見ていくとどう評価できるのだろうか。イスラエルは「技術力」が格別高い。今やシリコンバレー顔負けのイノベーションハブとして、意識高い系ビジネス界でもよく耳にするようになった。過酷な自然環境から生み出された「生存の技術」すなわち農業、水といった分野、そして民族の歴史的宿命ゆえの過酷な安保環境により生み出された最高レベルの軍事技術。共に、イアン・ブレマーのいう「保護者」としての立場をもたらす技術を誇っている。農業も、水も、軍事も、どれも世界市場で隠然たる影響力を持つリーディングインダストリーとなっている。「政府の質」もおそらく高いだろう。インテリジェンスは政府の質に重大な影響を与える、あるいはそれ自体、質の構成要素かもしれないが、イスラエルのインテリジェンス能力は世界一というのは有名な話だ。徹底的な情報収集、分析に基づいた冷徹なリアリズム外交は、果たしてかの国の生存に大きく貢献しているだろう。「国土」の制約を、「技術」「政府」で克服しているパターン、といってもよかろう。

 シンガポールはどうか。イメージとしては、高い教育水準と通商、金融立国といったところか。金融立国であることは間違いないし、イスラエルとの違いかもしれない。それをもたらしたのはエリート主義による超効率的政府であることは間違いない。ただ、なぜシンガポールが金融ハブになり得たのか、その前提としての「通商国家」たる地位はどこから来たのか。ヒントは「国土」にあることは明らかだ。「小国」であるのは事実だが、世界地図は大きさだけの問題ではない。マラッカ海峡からシンガポール海峡を抜ける道、「チョークポイント」に位置していること自体が、かの国に圧倒的戦略優位を与えているのだ。事実、その戦略的重要性ゆえに、マレー半島は列強の支配対象となってきた。大英帝国も当然例外ではない。21世紀、米軍がそこに拠点を持つのも、「一帯一路」で中国が接近するのも、全て当然なのだ。

 一昔前なら、「侵略される」という恐怖があっただろうが、さすがに現代で「侵略」はない。(といったところで、クリミアの「侵略」が起きた事実は変えられないが)シンガポールは、アメリカからも中国からも、もちろん日本からも、ただそこに位置しているというだけでも、是非とも自陣営に入れて起きたい戦略パートナーになれるのだ。この意味は大きい。

 よく「日本は資源もないし軍事力も封じられた。だからこそ外交が重要だ。シンガポールのように資源や力がなくともうまく立ち回れるはずだ」という。もちろん外交は必要条件である。ただし、そういう国には日本にない戦略優位がそもそも備わっているという事実は認めねばならない。戦略劣位を無批判に受け入れ、「リアリズム」の名の下で現状追認をするだけでは、「冷笑的リアリズム」の批判を免れないだろう。

モーゲンソーの国力

国力については色々な分析があるが、モーゲンソーの分類が包括的(その文量が多いが)だと思っている。

 地理・天然資源・工業力・軍備・人口・国民性・国民士気・外交の質・政府の質の9つが国力の要素という。

 ちょっとまとまりがないので、勝手に分類すると、

⑴「国土の質」=世界地図における立地、天然資源の有無。

⑵「国民」=人口と国民性・国民士気をまとめて。

⑶「技術力」=工業力と軍備生産力。

⑷「政府の質」=内政と外交、軍隊の運営能力。

てな感じにできないだろうか。

 1〜3はいわば材料、カードゲームにおけるデッキにようなもので、それをどう使うかは、基本的には政府に託されている。いくら強力なプレイヤーでもデッキがショボすぎたらやはり勝てないが、デッキが素晴らしくてもプレイヤーが無能だとこれまた勝てない。両者は車の両輪関係にある。

 「国家のために何ができるか」という話であれば、「デッキを充実させる」か、「ゲームの腕をあげる」どちらかに貢献するという道筋が見えることになる。後者は基本的に政府の役割なので、官僚になるか政治家を目指すといった、古き良き東大生の王道ルートということになってくる。

 官僚になるような人たちはやはり優秀で、入省してすぐ欧米の超一流校に留学し、輝かしいキャリアを歩み始める。官僚を世間知らずとか批判する人は多いが、日本の官僚レベルは低いどころか、かなり高いといってよいのではないだろうか。(最初はともかく、その後は、まあ、わからんけど)

 にもかかわらず、日本は相変わらず微妙な感じで停滞している。僕の仮説は、「デッキを充実させる」方面への取り組みが足りないからではないかということだ。外交や安保なら、この前書いたように、現実主義に徹して日米同盟を維持するのが最優先で、この分野でデッキを強化する(=軍備拡大)は許されない、だから仕方ない面もあろう。

 一方で資源や工業分野は、やれることは多いはずだ。日本領海内の海洋開発にしたって、政府はやってはいるが、いまいち腰が入っていないように思える。そうこうしているうちに、中国にイニシアティブを取られる可能性はかなり高い。海洋分野で、中国はかなり戦略的に動いている。石油ガス産業と造船産業が一体となり、文字通り官民連携(元々分かれていないが)で競争力を日々増強しているのだ。原子力も同様だ。戦略エネルギー源としての原子力産業は、今の調子では日本勢はほぼ敗北路線だろう。その穴を埋めるのは、中国でありロシア、あるいは韓国である。資源や軍事力といった国力に影響する(=戦略的重要性を持つ)産業における、政財官三位一体の取り組みが急務だろう。

 と、ここまで書くとそこらへんの新聞や雑誌記事のような結論になってしまう。こういう言説は多いし、陳腐だ。問題は、こういう意識が政治・役所の世界でしか共有されないことだ。

 ここにおなじみの地経学が出てくる。国力のうち、「デッキ」の強弱は多くが民間部門に依存しており、そのロジックは「国力」「国益」とは無関係である。だから、国益視点で政治家や官僚がいくら「企業は海洋産業に進出しよう」「原子力はやはり重要だ」などといっても、経営者からすれば雑音、よくて「理想論」に留まってしまう。結局、個々の企業が世界市場で勝利する、この前提を築けない限り、国力は伸びない。

 そうすると、これは官僚たちの行政論や政策論を超えた、経営論になってくる。真に国益に貢献するのは、経産官僚ではなく、むしろマッキンゼーコンサルタントかもしれない、ということだ。とにかく、「国士的企業家」が求められている。明治時代、あるいは戦後初期の日本には、そうした企業家が多く存在したはずだ。

 

 

『現代日本の地政学 13のリスクと地経学の時代』日本再建イニシアティブ 中公新書

いわゆる日本の政治学エスタブリッシュメント(なのかはわからないが)が、真剣に地経学の話を議論している。そして我らがパラグ・カンナの本も引用されるなど、最近のマイブームを凝縮してくれたような本。当然面白い。

 地経学の重要性とかは自分は結構わかってるつもりなので、そこは割愛し、中山俊宏先生の言葉を抽出してみたい。

 曰く、「日米同盟の『向こう側』を語る現実的な言葉を日本自身は持っていない。〜左右両極に『向こう側』を語る言葉があるにはある。だが、そこにあるのは、自らの政治的立場を説明しようとする、いわば『自分探し』の言葉であって、安全保障政策の言葉ではない。むしろファンタジーに近い。他方、外務省・防衛省を中心とする『同盟のマネージャー』たちは、逆説的にいえば、同盟の向こう側を語ることは不毛だから止めようと同意したグループだ。」

 蓋し箴言だろう。軍事リアリズムに立てば、今の日本にアメリカ以外の選択肢があるとは思えない。それ以外の選択肢は、独立(含む核武装)、中国影響圏への加入、ミドル国との連携(豪州など)しかない。どう考えても現状がマシである。そういうことだ。だから核武装とか「アジア共同体」などという夢うつつを抜かすのではなく、辛酸をなめつつも、米国をつなぎとめる。そういう矜持とか覚悟が外務・防衛の人たちにはあるということだ。自分の近しい人々も多くこの世界にいるから、よくわかる。

 しかし、そういった人たちがいることを、必須のこととして受け止めた上で、あえて僕は「ファンタジー」を追いたいというのがある。「シン・ゴジラ」で描かれた、自然災害と並び我々のコントロール外にある強大な存在、そのアメリカを如何ともし難いという状況は、そうはいっても屈折的・あるいは屈辱的だ。地経学の時代にあって、日本の戦略的脆弱性を補い、あるいは戦略優位に立てしめる武器は何か、そんなクエストがあっても良いではないか。

 真山仁売国』の冒頭には、その武器は「宇宙開発」だとする戦後の黒幕と若き通商官僚のやり取りがある。フィクサー曰く、「日本が世界から必要とされる、日本なしには世界が立ち行かなくなることが、中小国が生き残る唯一の道だ」。宇宙開発がそうだとは必ずしも思えないところはあるが、世界の社会・経済システムの根幹を担い、しかもその市場を寡占する、そういった地経学的文脈での戦略産業育成が急がれる。これこそ、「ファンタジー」の先にある未来だろう。

 外務・防衛官僚がリアリストなら、経産官僚にはこうした理想主義者がいるような印象がある。だが「官僚たちの夏」はすでに過ぎ去り、「産業政策」の限界はもはや明らかだ。産業の担い手たる企業経営者こそ、こうした気概を持つべきだろう。地経学の時代、自由主義・民主主義国における真の愛国者は、産業界にこそ必要なのだ。