善く生きるとは 2

 「善」の定義は色々厄介なので、とりあえず、自分が幸福であること=善く生きること、としてみる。自分の幸福を形作る要素は何か。

①優しさ、博愛:イエスキリストほどとは言わないが、他人に優しいこと、その中身は、他人の幸福を願い行動することだと思うが、これは「善く生きる」ことと関連があると思われる。

②誠実さ、真実を求める態度:自己満足でなく、相手が本当に望んでいるものは何か、相手の幸福とは何かを徹底的に考える態度、これを誠実さというのだと思うが、これもまた、善い態度だろう。

③自分自身の快楽:エピクロスが言うように、自分の趣味、嗜好、興味、それを見つめて鑑賞するのは人間的な営みだと思えるし、何より、自分の快楽を徹底的に排除した氷のような人生は、少なくとも歩める自信がない。よって多かれ少なかれ、自分の快楽を無視するわけにはいくまい。

 

 この三要素は、明らかに、潜在的対立を秘めている。博愛が善であり正義だという立場を貫こうとすれば、自分の財産を全て寄付したり、危険を冒して人助けをしたりしないといけなくなる。それは往々にして自分の快楽と反する。そしてまた、その博愛主義から繰り出される行為が本当に人々を幸福にしているのか、そう言う抑制的・懐疑的な内省と衝動的・行動的な博愛は時に対立する。「正義」の名の下に他者を殴り倒す光景がまま見られるが、これも、肥大して独善と化した博愛主義が、相手の気持ちを考える誠実さを制圧することから生まれる。

 同様に、誠実であろうとするあまり、あらゆる価値の相対性、虚無性を悟れば、そこにあるのはニヒリズムである。ニヒリズムを盾にして、心から湧き出る親切さや愛まで否定すれば、そこにはもはや人間性のかけらもないのであって、「善い生き方」に繋がるとは思えない。またどれだけ価値の相対性を声高に主張しても、現にこの自分自身には明らかに嗜好があるのであって、その事実は揺るがすことができない。

 自分の快楽こそが善であると言うのは一見スッキリした理解である。人助けがしたい(それが自分の精神的快楽になる)のなら、すればよい。しかし、どんなに憎く嫌いな相手でも、助けることが正しいと信じざるを得ない状況も存在するのであって、この時、快楽主義の砦は盤石ではない。

 それぞれ異なるこの三つの立場が三権分立の如く互いに睨みを利かせ、それでいてバランスを保っている時、その生き方は「善い」、従って幸福なのではないか。アウグスティヌス的な博愛、ソクラテス的な真理への誠実さ、エピクロス的な快楽と美意識の洗練、それらの節度ある統合。

 

 博愛に基づいて、世界中の人々の幸福に貢献したいというのは善いことだろう。しかし慎重にならねばならない。もしそのために公権力(狭義の政府のみならず、広い意味での公共資源。知名度、富など)にアクセスして力を振るおうというのなら、尚更である。その「善意の強制」によって不幸になる人の可能性を考慮せねばならない。石油文明たる現代社会の福利厚生を維持すべく石油生産に従事するという人は、開発で破壊される土地や共同体、それにより苦しむ人々、あるいは、地球温暖化で苦しむ将来世代の苦悩を直視して鞭打たれねばならない。将来世代のために化石燃料を排除すべしという人は、経済の縮小により生じる失業や停電、電気料金高騰による苦しみを知らねばならない。平和のために軍事基地が必要だと主張するのなら、基地建設・軍隊の存在により生じる誰かの痛みを受け止めねばならない。軍隊こそが戦争の原因だと言って軍縮を主張する人は、敵国より不利な状況に置かれることで不安に苛まれる人の苦しみを見つめるべきだろう。もちろん、情報不足によって「非合理的な」認知が形成されている時、それを「正す」のは博愛精神から見ればおかしなことではないが、それでも埋まらない認知の差は知っておくべきであろう。徹底的に誠実な立場に立てば、他人の幸福など完全に知ることなどできないのだから、出すぎた真似はするな、ということになろう。

 しかしアノニムな世間一般、人類や国民と言った抽象的対象に働きかけることだけが博愛ではなかろう。「隣人愛」の言葉が示す通り、まずは自分の周囲の人間に徹底的に向き合うことこそが、博愛と誠実さが調和したあり方ではないか。「人類一般の正義」は語れなくとも、顔の見える隣人との絶え間ざる対話を経ることで、家族内の正義、地域社会の正義、あるいは会社の正義は語れるのではないか。この微かな希望を抱いて、地に足のついた人生を送りたいものである。

 

 

 

善く生きるとは

 人生の目的は何か。幸福になること。では幸福とは何か。善く生きること。善く生きるとは何か。足るを知り、優しさと誠実さを保って生きること。優しさとは何か。他人の幸福を願うこと。誠実さとは何か。責任を全うすること。

 自分の幸福が、善く生きる即ち他人の幸福を願い、同時に、責任を最後まで全うすること、と主張するのは私の勝手であり批判される筋合いはない。一方、私の幸福の条件になっている「他人の幸福を願う」時のその「幸福」とはどんな内容だろうか。それを私が勝手に決めて良いのだろうか。幸福とは何か、というのは、東西の古代哲学者は好んで探求したようであるが、近代以降は下火のようである。化石燃料時代即ち物質主義にあっては、「幸福=快楽」が無条件の前提とされてきたように見える。功利主義自由主義共同体主義、結局全て個人の快楽や欲望の満足度最大化を志向している。幸福とは、というのは時代遅れの宗教家か、エモいポップ・ミュージックでしか聞かれなくなった。しかし、この問いこそが、私にとっては最大級に重要である。

 細かい議論をフォローする余裕はないので、ひとまず、幸福=善とした上で、「幸福=快楽説」と「幸福=魂説」の雑な二分法で話を進めたい。前者は古代ギリシャにおいてはエピクロス派が主張した幸福論に近く、また、現代社会の基盤をなす思想といって差し支えないと思われる。後者はストア派からキリスト教、その他多くの宗教が考えるところの、魂の陶冶、徳の達成こそが善であり幸福だという立場としておく。

 快楽説と魂説で決定的に異なる点は、最大公約的な幸福を観念できるか否かではないか。快楽説ではそれが可能であり、魂説では不可能だと私は感じている。快楽説に立てば、すぐに思いつくのは「肉体の生存・健康は万人共通の快楽=万人の公共善」という論理である。確かに、快楽(不快の欠如と読み替えても良い)が幸福・善であるというとき、肉体的拷問をされている人は決して幸福ではないだろう。病気や痛み、具体的には戦争・飢饉・疫病といった肉体的災厄から逃れることは、疑いようのない公共善であるといっても違和感はないし、事実、近代国家における公共政策が等しく志向するのはこういった「公益」であろう。一方魂説に立てば、こうはいかない。ストア派の哲学者が述べるように、善とは陶冶された精神の状態を言うのであって、外的条件によって左右されない。つまり、戦争・飢饉・疫病の最中にあっても、人間は善を実現しうるのであり、したがって幸福でいられる、ということになろう。また、個々人の精神は全く独立・固有のものであるから、肉体的快楽のような共通性、最大公約的善は観念し得ない。そこでありうる他者貢献とは、布教に代表される「救済」である。

 魂説を採用したとき、私の幸福条件である他者への優しさは具体的にいかに発露・実現されるだろうか。他人の幸福とはその人の精神状況次第であって、私が他人を幸福にするには、精神状況そのものに作用しないといけない。これは大変なことである。少なくとも、普通我々が「仕事」と呼ぶような、アノニムな多数者と触れ合うようないい加減なやり方では到底実現できまい。本気で愛する人、家族のような近しい人間に対して、全力でぶつかり、もがきながら、辛うじて相手の幸せを構成できるか否か、それくらいの大仕事である。もちろん、相手の魂の陶冶に貢献するのであるから、自分自身の魂はピカピカに磨かれ、日々のあらゆる行動に浸透していないといけない。生き様によって善を示すのである。これはとんでもない大事業だろう。

 快楽説においてはどうだろうか。この説に立てば、確かに、万人に妥当する公共善を定義しうるから、それに献身するのが「優しさ」の発露ということになろうか。公共衛生の従事者、例えば国境なき医師団のような人々は、なるほど「善人」のオーラを纏っているではないか!

 魂説、快楽説どちらが正しいかはわからないが、あえて、快楽説批判を行ってみる。批判の第1点目は、「ある欲求を満たして快楽を実現しても、次の欲求が湧き出る。永遠に満たされないのであって、つまり永遠に不幸でしかない」というもの。マズロー欲求段階説が言うように、肉体的欲求が満たされれば精神的欲求が前面に出る。それは満たされることなく永遠に肥大する。物質的には極めて恵まれた現代社会でどうして自殺者が出るのか。欲望の永久サイクルという事実に照らせば、欲望満足=快楽が幸福であるというのは、実現しない蜃気楼を追うようなものであり、筋が悪い。

 批判の第2点目。これはかなり主観的になるが、そもそも、快楽=善だろうか。私は最初に主張したように、善とは優しさと誠実さ、いわゆる義理人情だと今は思っている。大衆からチヤホヤされる名誉や、人を動かす権力や、権勢をひけらかす富、それらを獲得することで得られる精神的満足(快楽)などは、善とは遠いと感じている。これは正直ロジックではなくて、直感、感性、美意識の類だと思う。ましなロジックが思いついたら、その時また書きたい。

 批判の最後は、現実性について。各人が快楽を最大化するとき、物理的には、エネルギーが消費される。エネルギーや資源は有限であり、無限に成長することは許されない。本ブログでも度々言及している通り、エネルギー収支比は減少に転じており、早晩快楽の制限を余儀無くされる局面に入るだろう。そんな時、幸福=快楽=善、などという信念を持っていて、やっていけるだろうか?むしろ、足るを知り、各々が精神の掘り下げだけによって幸福になれるというのは、究極の「エコ」ではないか・・・

 念の為、批判に対する反論も考えておこう。第一批判については、エピクロスがそう主張したように、「肉体と精神の安定」を善=幸福とすれば良いではないか、という考えがありうる。即ち、肉体的健康は大事。同時に、精神の陶冶(欲望の制限)も大事。両輪なのだ、と。これに対しては魂説から以下の再反論が可能だろう。つまり、「本当に肉体的健康は大事か?」と。精神の陶冶即ち禁欲の重要性について合意したならば、どうして、精神的禁欲は可能なのに肉体的禁欲は不可能だと考えるのか。強力な精神の持ち主は、難病の激痛の中でさえ、その魂を躍動させ、美しい生命を燃やす。これ即ち善であり、本人は幸福である。この事実だけで、肉体的条件が善・幸福と無関係であることがわかるのではないか。一度幸福の中身に「欲望のコントロール」という要素を認めてしまえば、行き着く先は「幸福は魂の中にのみ存する。それはいかなる暴力によっても砕くことはできない」という、魂説の主張に行き着くであろう。「肉体と魂のバランス」という主張は一見賢いが、中途半端に禁欲に合意することで、結局魂説の領域に巻き取られている。

 結局のところ、私にとっての暫定的な善・幸福は、まず第一に己の精神を磨き、「足るを知り」ながらも優しさと誠実さを貫くこと。優しさと誠実さの具体像は、自身の「善き生き様」を周囲に示すことで、一定の善のあり方を例示すること。になるかなーと。とりあえず、今の考え。

『人生を〈半分〉降りる』で解毒されました、というお話

中島義道さんの本を読んだ。内容は実際に読んでもらうとして、これを読んで感じたことを書き殴りたい。(と思わせるような面白い本でした)

 

公共的なことに関わる時間なんてなるべく少なくして、自省せよ、自分の人生の意味を考えよ、という感じの内容だと思うのだが、僕は割と常々こういうことを考えていて、時々ノイローゼ的になったりしている。で、「こうだ!!」とひらめく瞬間が定期的にあって、ノートに書き殴り、翌日も翌々日も反芻していると、「なんか違う」という気がしてきて、また堂々巡り・・こんなことを繰り返しているから、中島さんの主張を聞いて、「ああこれでいいんだ」みたいな安堵を感じた。

 本の内容とは全く関係ないのだが、これを昨日読んで、やっぱりビビッときて、今日一日中考えたわけですよ。で、人生ってやっぱり自分の認識がすべてだなーと。

 自分語りで大変恐縮だが、僕は中堅進学校で成績トップを取り続けて、自尊心が高まって、いい大学に入るところまで順調にきたのだが、周囲の友人のメジャーな進路である国家公務員という道を選択する気が起きなかったわけですね。もう何というか受験で燃え尽きてしまって今から「受験勉強」なんて死んでも嫌だった。(世の秀才というのは凄くて、こういう「試験」を息をするように軽々こなしていくのだった・・僕はガリ勉、量でカバーするタイプだったから、もう燃料切れだったのだ。大学受験で燃え尽きる程度だから、まあ、そこまでと言ってしまえばそこまでだ。)だから民間就職ということになって、ここら辺からすでにそうだったと思うのだが、やっぱり何かをこじらせていたな、と。外交官とかにちょっと憧れがあったから、そちらが「正」で、自分は脇道なような、あるいは向こうが「陽」でこっちは「陰」みたいな。でもこれを絶対に認めたくない、そういう自尊心というか意地がある。燃料切れで勉強したくなかった、なんてカッコ悪いし、いや、もっというと、「勉強すればそんなん余裕でなれるよ」みたいな超空虚な見栄すら張っていた。拾ってもらえた会社は良いところだし、全く不満なく愉快な日々を送っているのだが、それでも、ふとした時に、例えば高校・大学の同窓会なんかに出て皆が権力の中枢で活躍しているのを見ると、このコンプレックスが湧いて出てくる、それが辛い。「なんだ、ただの敵前逃亡して後悔してるだけのイタイ人じゃん」と言われればYes。そうなんですね。

 だけど、こういう「モヤモヤした苦しさ」が人を哲人たらしめるんですねぇ。真剣に、いやもう本当に真剣に、この辛さの正体と向き合い続けて、ようやく解毒に成功しました、というお話です。

 思うに僕の苦しみは二面あった。一つは「善」、今一つは「承認欲求」。善について、僕は中二病をこじらせ続けていたので、どうも世の中に絶対的な正義なり、それに準ずるものがあって、それを追い求めるのが高尚である、と本気で信じていた。外交官がかっこいいと思っていたのは「平和」がその善の匂いを醸し出していたからですね。(まあ、「平和」だけが善であるわけもないのですが、その議論の荒さはご愛嬌で)そういう高尚な目標のために尽力するのは善い、尊い、こう思ったわけです。だから、燃料不足というか実力不足でこの善に奉仕できないとなれば、「なんだ自分は尊くない、しょぼくさい、しがない一市民で終わるのか・・・」とそれはもう強烈な劣等感と絶望感に苛まれたわけです。

 もう一つはなんてことはなくて、承認欲求、マズローで言う所の四番目ですかね。富とか地位とか権力とか、そういうわかりやすい「すごさ」です。周囲が面白いくらいにこういう「すごい」ところに羽ばたいていくので、どうもこう、自分がしょぼくさく見える。そういう思いは正直あったわけです。

 どういう形で解毒したか、なんですが、一つ目の「善」は割と複雑なので、二つ目から。承認欲求って誰でも持ってますよね。ちやほやされたら気持ち良い。でも、「そんなものはいらない」と言ってしまえばそれでおしまい。成功者は「永遠に成功しないといけない」、ということに気づくと、なんだかもうモルモットみたいじゃないか、と。持っているものは失いたくないという心理は誰でもあるので、一度「大衆承認」の味をしめると、失いたくないあまり無限の競争を強いられるわけです。そして、勝利の度、失うものは大きくなっていくという、「欲求の複利」とでもいうべき、悪魔性がここにはある。勝ち続けられる人はいいんです。勝ち続けて下さい。レースを続けられないという不安があるなら、最初からレースに参加する必要などない。大衆承認なんていうのは一過性でいい加減、それに翻弄されるなんて時間の無駄じゃないですか、と。承認欲求で大事なのはマズローでいう三番目。家族とか身近な共同体にしっかり貢献して承認してもらえば十分ではないでしょうか。と、いう形で割とすんなり解毒できています。

 大変だった(というか今でも完全には解毒されきっていないかも)のは善の方ですね。なんたってこれはもう哲学論争ですから、何を読んでも答えは書いていない。基本的な問いは、公共善(なのか絶対善なのか、絶対正義なのか、専門家じゃないので言葉はいい加減です。とりあえず、数多ある善のアイデアに共通するもの、というイメージ)はあるか、ということ。あるならば、それに奉仕するのが正しいし、奉仕しないのは(相対的には)正しくない。そして、これが大事なのだが、もし公共善があるなら、私はそれに奉仕したい、という思いがある。ここまでが前提。

 政治哲学の本を読むと、人権が正義、というのが割とスタート地点として共有されていると思っていて、基本的人権からスタートすれば、理想とされる政治体制もある程度は似たようなスタイルに収斂される。独裁はだめ。自由が抑圧されるから。民主主義はいい。問題は政府の大きさ。リバタリアニズム最小国家主義、古典的自由主義福祉国家新自由主義。はたまたコミュニタリアニズム?なんか色々あるな。

 だけどそもそも人権って古代からあったんだっけ?中世は神がいたよな。神が死んで、人間中心主義になった、とかいう説も読んだことがあるぞ。そういや、今関心のある石油減耗。エネルギー収支が下がって文明が享受できるエネルギー余剰が減れば、経済のパイは減少し、否応なしにみな貧しくなって、「人権」が空虚になるんじゃないの?それでも「人権」が絶対正義です、と主張するのだろうか。古い時代、それこそ狩猟採集の原始的共同体に人権はあっただろうか。毎日が生きるか死ぬか、そこにあったのは相互扶助であって、現代的意味での人権は多分ないのではなかろうか。すべて人間の筋肉と自然エネルギーで駆動された中世、そこにもやはり「人権」はないだろう。それだけの余剰が社会になかったのだと思う。それぞれの時代の姿というのがあって、その中で人はうまく生き抜くために神話を作り共有する。そうやって人類は生きてきたのでしょう。であれば今共有されるお題目だって、時代と場所が変われば移りゆくもの。そんな気がするわけです。

 「戦争と平和」だって同じ。僕は漠然と戦争は悪で平和は善、と、なんとなく思っていたけども、本当ですか?フランス人はフランス革命後の戦争を悪だと思っていますか。No。戊辰戦争は悪でしたか。No(だよね?)。独裁のもともたらされる「平和」は善ですか。(もちろんYesという答えがあっても良い。だけどNoという答えも同様に期待できる)。地獄的平和からの脱出を望む人からすれば流血なんてなんのその。聖戦という言葉もあります。いやいや、確かに正義をめぐる争いは果てがなく、相手の殲滅まで続くから、そういう理念は棚上げして、純粋に力の関係として国家関係を捉え、対立に対症療法的に対峙していく態度もある、という声もある。

 これはいわゆるリアリズムであるが、リアリズムの立場は、「国家」という空間を、とりあえず守るというものである。その内政がいかなるものであろうと、そこは一旦置いておいて、とにかく、その殻を守る、国内において正義が実現されるか否かは、国内の政治次第です、という立場だと思う。一見、最小国家論を唱えたノージックのいう「ユートピアのための枠」としての「国家」という感じで、悪くないように見える。善の形は人それぞれだから、公共という場では、みんなの善の最大公約数的に、公共善を定義できるのではないか。だがもう少し突っ込んでみよう。

 外的(この場合外国)からの攻撃を防ぎ国境を守れば、理論上、国民は邪魔されず善を追求できる。しかし、この「国境」にどんな正当性があるのだろうか。苛斂誅求に苦しむある地域の民が、歴史的につながりの深い隣国への併合を望んだ時、どうなるのだろうか。「国境」を守るリアリズムに沿えば、「そんなこと言うな。現状はもちろん維持する」と言う態度を取るほかないと思うが、これは正義か。あるいはどうしようもない人権侵害的独裁が起きている国家の外交官は、正義の名のもとで、国境を守っていると誇りを持って主張できるだろうか。リアリストが「正義をめぐる争いの先には殲滅戦しかない。それは悲劇である。それであれば現状を固定して、いつか、誰かが解決するのを祈ろう」と主張するとき、少なくとも、「正義をめぐる殲滅戦」よりも「現状」の方が倫理的にベターであるという価値判断をしていると感じる。外国の外交官が、人類最悪級の独裁者による人権侵害を目の前にしてもなお、それを倒す戦いが悲惨を極めるであろうという理由で、「正義よりも現状」を優先する姿勢が「絶対正義」ではなさそうである。

 この問題は実は根が深くて、現代の主権国家体制に対する挑戦でもある。A国とB国がいて、地政学的に対立している。A国は軍事抑止力を利かすべく同国内の辺境に位置する島に基地を建設しようと目論む。しかしその辺境は歴史的にはA,B両国の交易中継地として栄え、帰属意識もどちらかに完全に偏っているわけではない。島民は両方の国と仲良くしたいと言いながら、我々の穏やかな暮らしを破壊しないでくれと言う。A国政府は急速に台頭するB国の脅威に対応するには基地が必要だと引かない。この時、「抑止力による平和」のために島民が犠牲になることはどう正当化されるか。A国の国境を守ることが直ちに善とは言えない。その国境が必然ではないからである。

 もう善の問題はクリアになっている。つまり国防も秩序も公共善ではない。それらが覆い尽くすところの領域、それらが奉仕するところの領域それ自体が「自然」ではないからだ。国境が恣意的に、あるいは過去の暴力的闘争の末に定められているところに限界がある。

 そんなこと言ったって警察や司法や国防がないと困るじゃないか、と言うと、そうです。困ります。だから必要ではある。しかし「善」ではない。必要だから需要があって、その仕事がしたい人がいて、したい人がすれば良い。もうそれは、善とか高尚さとかではなく、個人の趣味、美意識の問題なのだ。これが僕の第一の悩みの解毒作用です。政治エリート、公共エリートが「善」を担っているわけではない。そこに偽装された善はあるが絶対的なものなど有りようがなく、歴史の積み重ね、偶然で「そういうことになっている」仕組みが横たわっていて、世界が動いていくために仕組みを動かす人が必要で、それが政治家だったり公務員であったりする、という話。

 だから結局のところ、絶対善、公共善、正義は何かみたいな話は、公共的な次元では決まりようがないのだと思う。色々な人がもっともらしいことを言って論戦を貼って、たまに暴力や陰謀が混じって、その積み重ねで「そういうことになる」というプロセスでしかない。その中で自分が何を信じて、何に奉仕して、というのは全く善の問題とは無関係に、美意識でしかない。だから生きることは、どういう美意識を持つか、誰に承認されたいのか、この二点に尽きるのではないか、そう思うのです。これが今時点の気持ち。駄文恐縮!

エネルギー収支から考える未来 オルロフ『崩壊5段階説』を手掛かりに

【以下で述べることはツイッターでダラダラ書いたことを備忘と頭の整理を兼ねて記述するものであって、嘘や飛躍が多々混じっているかもしれないこと先にお断りします。】

 

エネルギー収支、即ち1単位のエネルギー投下によって得られるエネルギー量、言い換えると人類が享受できるエネルギー余剰こそが、文明の形態を規定する最も根元的な要素だと思っている。太陽光、人力、家畜に頼っていた古代や中世は、大航海時代、即ち帆船と航海術のイノベーションにより大海原の風力エネルギーを活用する勢力が現れたことにより、新たな時代へと変貌する。グローバリゼーションが本格化するのだ。人・モノの移動は経済のあり方を変え、社会を変え、政治を変えた。とはいえエネルギー面での非連続な大変化といえば、言わずもがな、産業革命による化石燃料時代の到来である。人口は産業革命を境に急激に上昇を始める。世界経済のGDPも、詳しい計算はよく理解できていないので省くが、エネルギー収支と強力な相関があると言われている。

 近未来を考える上では、このエネルギー収支が決定的に重要だ。第二次世界大戦においてウィンストン・チャーチル卿が石油利用を推進し、戦後、モータリゼーションのさらなる推進と相まって世界的に石油需要が増大した。いわゆるエネルギー革命だ。石油は神の雫だ。エネルギー密度は圧倒的に高く、かつ液体であるため扱いやすい。近年は電気自動車の台頭によりガソリン・内燃機関が端に追いやられている感があるが、エネルギー収支で言えば安価な石油を用いる方が圧倒的に効率的ではないだろうか。ここは詳細に検討してないのであくまで推測。それを差し引いても、電気自動車は電力インフラを前提とする、即ち再エネであれば出力変動とエネルギー密度の低さという課題、化石燃料であれば燃料の採掘と輸送という問題(この活動は結局石油に依存している)があるわけで、電化を進めるにしても、一定程度の石油はやはり必要になる気がしている。

 そんな石油採掘にかかるエネルギーは年々増大している。いうまでもなく、近年新たに発見される油田は中東の陸上などではなく、ブラジルやメキシコ、アフリカの深海だ。アメリカのシェールもあるが、比較的採掘コストは高くしかも短命であるから、見かけ上の生産量は多いがエネルギー収支はイマイチだと思っている。深海での生産は困難だ。いくら大きいとはいえ、海底深くまでガスや水を注入しないといけない。これには当然大きなエネルギーが必要になる。こうやってギリギリ支えられているのだ。よって文明が享受できる余剰エネルギーは年々減少しているのであり、いわば、赤字経営が続き、資産を徐々に食いつぶしているような状態にある。

 この状況が示唆する未来はいかなるものか。ドミトリー・オルロフ『崩壊5段階説』が興味深く分析する。曰く、まずは金融が崩壊する。なぜか。現代のグローバル資本主義は無限成長を前提としていることは明らかである。企業は年率何%の成長なのか、投資利回り(=つまり成長率)はどうか、マクロ経済の目標は?2%インフレ、つまりこれも成長を前提としている。経済は右肩上がりに成長していくというのが現代資本主義の大鉄則であり、これが崩れれば誰も投資などしない。つまり経済が回らない。そして、経済成長は余剰エネルギーの増加に他ならないならば、エネルギー収支が急激に悪化することが予想される近未来において、グローバル資本主義は絶望的な崩壊危機に直面すると言わざるを得ない。

 オルロフは、金融崩壊後は商業の崩壊がくるという。確かに、金融に関わらない商業などほぼ皆無であり、スーパーマーケットを建設するのだって金融借り入れが必要で、農家だって借金することを考えれば、当然だ。このように金融・商業が壊滅的被害を受けた時、世界はどうなるのだろうか。具体的には、政治はどうなるのか。これが今一番気になっているテーマだ。

 エリック・ホブズボームは、市民革命と産業革命を二重革命と称した。私は、化石燃料産業革命を親として、民主主義=国民国家グローバル資本主義の双子が生まれた、という理解をしている。産業革命によりエネルギー余剰が増大し、その余剰を効率的に蒐集した勢力=産業ブルジョワが誕生した。これがグローバル資本主義をドライブしていく。パワーを持ったブルジョワは、アンシャン・レジームにおいて不当にも彼らの権限が制約されていることに腹を立て、政治参加を求めて市民革命を起こした。市民革命というと「貧しい農民のような中世世界における被抑圧者」が蜂起したように思われがちだが、単に金持ちが貴族を倒した、というだけでしょう。(金持ちが新しい貴族になっていることは、現代を見れば言うまでもない。)ブルジョワは、自分たちの産業を最速で成長させるには、民衆をうまくトランスフォームする必要があることに気づいていた。日の出と共に起き、日没と共に寝る、ような牧歌的生活をされては困る、定時に起き、工場に行き、遅くまで働く、ロボットのようにこき使いやすい労働力を得るにはどうするか、というところで、国民への義務教育というアイデアが出る。同時に政治哲学の面でも、中世的社団といった中間団体は一般意志の成立を妨げるとかなんとかで、ギルドや農村共同体、宗教団体を徹底的に潰し、近代国家の元で一人一人が平等、自己実現を目指すべきというトレンドができた。ブルジョワにとって使いやすい労働者を作るということと、一人一人が自己表現・自己実現・自由を目指すという政治的・思想的お題目が見事に一致し、国民国家が作られた、ということではないか。

 で、近未来、即ちエネルギー収支減少局面で世界はどうなるか。18世紀、19世紀に起きた変化と逆のことが起きるのでは、というのがとりあえずのイメージ。つまり国民国家は崩壊か衰弱し、村落・都市共同体、職業団体、宗教団体といった社団が復活し、福祉サービスや精神的支柱を提供する、そして世界秩序は中世的帝国に再編される、という流れである。

 なぜ国民国家は持続しないのか。それは資本と国家のベクトルが完全にずれてしまったからである。近代初期においては、資本家と政治エリートは、目的に差はあれど態度は一致していた。両者とも富国強兵と殖産興業を目指した。現代では両者は微妙な関係だ。グローバル資本は国境を越え、タックスヘイブンで課税を回避する。国家は税収を確保するために法人税を上げることができるが、すると資本が逃げて行く。資本家に優しい政策を取れば、再配分を求める民衆の突き上げを受けるという、苦しいジレンマに陥っている。ブラジル大統領選をウォッチしていて、この姿が手に取るようにわかった。海外投資家に有利な政策をとる経済右派が優勢になると株価が上がる。再配分を主張する左派が有利になると株価が下がる。国民の世論調査こそが唯一無二の指標であるはずだったが、実のところ、グローバル資本主義による「審判」がリアルタイムで行われているのだ。結局ブラジルは経済右派のボルソナロ氏が勝利、海外石油メジャーは嬉々として投資姿勢を強めている。だがリスクはある。再配分の不足と、一部経済エリートに富が集中して行く姿を見て、民衆が蜂起するかもしれない。事実、ペトロブラスディーゼル価格をあげたことで、トラック運転手がストライキを実施、経済が半分麻痺するという事態が今年5月に発生したのだから。

 ただし、今置いている前提は、エネルギー収支減少によって資本の力が弱まる、ということだった。資本主義の力が減れば、かつてのように、国家と資本が一致して強力な国民国家が実現するのではないか・・・私の考えは、NOである。

 思うに、民衆が国民国家を受け入れたのは、経済のパイが急速に成長し生活が豊かになる中で、社団に頼るよりも、国家に頼った方が効率的・効果的に成長を享受できると感じたからではないだろうか。国家、例えば財務省のエリートが税収の使い道を「合理的」に考え再配分すれば、各地域の社団がちまちまやるよりも、よっぽど効率的であることは恐らく事実だ。一方、税収は畢竟グローバル資本の流れから掬い取るものであって、そのパイが減って行く中では、国家歳入は減少する。日本では高齢化も相まって、例えば年金システムについての信頼性がどれほど国民内にあるのか、甚だ疑問であるように、「国家が富を回収して配分する」行為に信頼が置かれにくくなるだろう。どうせ返ってこない年金を払うくらいなら、顔の見える共同体で相互扶助の仕組みを作った方が、心理的にも安心感があるし、実際、その方が生き残りやすいと思う。これは中世的社団の復活に他ならない。南青山の児童相談所騒動が示すように、一部の富裕層の倫理観からしてみれば、もはや「国民という同胞」のための再配分などは迷惑でしかなく、仮に国家が暴力でそれを強制すれば、本当の意味で資本と国家の戦争となり、恐らく資本が勝つだろう。トランプ大統領が誕生した際、カリフォルニア州が独立するといった動きが一部に見られたが、これは極端にしても、富裕層が民兵を雇って自衛コミュニティを作るというのは全く不思議な動きではない。

 要するに、経済のパイが縮小する局面という殺伐とした時代にあっては、国家という大きな機構は時代遅れの遺物となり、もっと小さな共同体に人は信頼を寄せるだろう。富裕層は壁を作って閉じこもるだろう。政治倫理的には富の再配分が課題になるが、地縁、血縁、宗教、職業といった面での社団が一定の救済になることを願いたい。また、少々荒っぽい議論だが、貧困層がたまりがちな都市秩序を維持するために、都市富裕層が貧困支援に合意するという可能性はあると思う。何れにしても、都市や農村といったレベルで調整が行われるのであり、国民国家という巨大システムの出る幕はあまりない。

 ちなみに低エネルギー世界で現在の人口を現在の生活水準で維持することは確実に不可能であるから、冷徹な言い方をすれば、人口が急減する事象がおきないと辻褄が合わない。それは内戦か戦争という形を取り、そこに天災や疫病がかぶさるかもしれない。この天変地異が、国家の威信失墜の決定打となると見ている。悲観主義者と言われるかもしれないが、21世紀中葉は、本当にカオスな時代となるのではないだろうか。

 最後に、「崩壊後」の国際関係も考えておきたい。国際政治や国際関係論はほとんどがウェストファリア以降の国民国家主権国家並存体制を前提にしているのだが、国家衰弱後はこの前提が崩れ、より中世的な帝国的秩序となるだろう。国際政治学における主たるテーマである戦争と平和、勢力均衡といった理論は、「戦争がない世界が善い」という認識があるように見えるが、戦争が「違法」になったのはここ100年程度の話であり、その理由は、航空機や爆弾の普及、及び国家間の大競争という時代では前線と銃後の区別なく総力戦が行われ、その破滅性は目を見張るものがあり、武勇を見せつける場としての中世的戦争観が転換したことによるものと思うが、幸か不幸か、エネルギー収支が減った世界においてはこのような総力戦は起きようがないと思う。

 都市と農村という有機的ネットワークの中で、当然衝突もあり、流血もあるだろうが、とはいえ一定の地域がなんらかの思想によってまとまる世界、中世における神聖ローマ帝国オスマン帝国、日本の天皇幕藩体制のような秩序になるのではなかろうか。きっと、宗教が力を盛り返してくるはずだ。神は一度死んだが、また蘇るだろう。

 「新しい中世」という概念が提示されてからしばらく立つが、一見、世界は近代に逆戻りしたかに見える。が、それは恐らく最後の反動であり、近代を支えた根本原理である高エネルギー収支が終焉に向かう今、改めて、中世秩序の復活というアイデアを検討する価値があると思われる。

 

 

 

英雄ヴァルフィッシュ・イェーガーと火のエレメント

 カール・シュミット『陸と海 世界史的な考察』を買った。まだ全ては読んでいないが書店で斜め読みしたところ、第5章「鯨と捕鯨者を称えて」が一際目についた。

 メルヴィルが『白鯨』で描いた捕鯨漁師「ヴァルフィッシュ(鯨)・イェーガー(狩人)」こそが、それまで沿岸部につなぎとめられていた人類が大洋に進出する先頭に立ったのだという。中世の海洋覇者ヴェネチアも、所詮は「内海文化」のチャンピオンに過ぎなかった。捕鯨の民こそが、初めて海のエレメントのうちで生きるようになった「海の子」だった。

 そして第20章がまた興味深い。「陸」と「海」という二つのエレメントに加え、「空」そして「火」が加わるという。空は航空宇宙技術と電脳世界(Digital technologyを含む)、火はエネルギー、具体的には化石燃料原子力を指すのだろう。シュミットはこの4大エレメントの関係や構造については言及を避けている。「真面目な考察と空想的な施策が入り交じっていて、まだ予想のつかない活動範囲が広がっているから」らしい。

 僕はライフテーマを海とエネルギーと言ってきた。海を巡る文化や歴史、国際関係が好きであると同時に、技術を核としたエネルギー問題にも強烈な関心があるからだ。シュミットが予見しつつ深入りを避けた「海」と「火」というエレメントを、ゆくゆくは自分の言葉で語りたいと思う。

ジャック・アタリ『海の歴史』

 この前買った本もまだ読み終わっていないから、本屋には行ってはいけない。衝動買いで積ん読が増えてしまうから。そう思いながらもふらっと丸善に吸い込まれぶらぶらしていると、案の定、その美しい表紙と魅力的なタイトルが、海の魔物セイレーンの如く誘惑していたので結局買ってしまった。

 ジャックアタリは言わずと知れたフランスの大御所知識人。未来予測系の本をよく書いているが、アプローチは文明論の王道といったところ。今回は海を中心に据えて宇宙開闢から近未来までを雄弁に描いている。

 海を主人公にした本で最近読んだのは、ジェイムズ・スタヴリデス『海の地政学』。NATO総司令官まで務めた米国海軍軍人の手になるこの本も、7つの海を舞台に繰り広げられた歴史上の海戦に焦点を当てながら世界史を概観する。とはいえこちらは海軍軍人の視点+国際政治、といった領域に限定されていたが、アタリの方はというともう少し視点が広い。同じフランスの偉人、ブローデルの『地中海』あるいはマクニール『ヴェネチア』に通じる。本ブログでも度々言及しているパラグ・カンナ『接続性の地政学』にも近い。

 人類の世界史を海と陸の対立で捉えるというのは伝統的地政学の発想に他ならず特に新規性はない。ただし地政学という文脈を超えて経済や文化まで含めて語ているという意味では新規性を感じる。海は自由というイデオロギーの支柱である、という主張は、「海洋ロマン」を文学や映画を通じて表現してきた勢力は皆、歴史上の勝者であった事実を見れば実に興味深い。海を制すものが有利であるなら、そこには人々を海に駆り立てるような文化・思想があったということだ。その点、日本はどうだろうか?島国ではあるが、外洋に出てロマンを追うという文化的モチーフはあまり存在しないように思う。残念ながら。

 海は文化の基盤であり、食料とエネルギーの産地であり、新しい遺伝子資源といったバイオ資産に富み、海洋機能は気候維持にとって極めて重要だ。海を知り、海を守りながら上手に利用できる勢力、「海洋文明力」が未来のキーワードだ、という。強く賛成する。海洋環境の汚染速度は極めて早く、その保全の枠組みは心もとない。思想・制度・技術それぞれにおいて、持続可能な海洋文明の構築が喫緊の課題ということだ。これは今後も考えていきたい。

 

『ホモ・デウス』を読んで考えた色々

 ユヴァル・ノア・ハラリの新作『ホモ・デウス』を読んだ。前作『サピエンス全史』も非常に面白かったけど、こちらも劣らず刺激的。今作はテクノロジー、特に人工知能生命科学の進歩による近未来の思想的革命について考察しているのだが、その詳細には立ち入らず、彼が考える文明観について自分なりに咀嚼したい。

 前作で強調されていたのは、人類を特別たらしめる能力は「虚構創出力」ということだった。国家や宗教、貨幣といった抽象概念は全て実体がないのに、一定の構成員は皆それらを前提として協力できる。動物も協力はできるが直接コミュニケーションできる範囲でしか不可能だ。一方人類は虚構を通じて見ず知らずの他人と協力できる。だからここまで圧倒的になれたというわけだ。

 この考えに触発されて、僕なりの文明観を作ってみた。それは思想ー制度ー技術のトライアングルである。思想というのは幅広く、人権のような普遍的概念、宗教、国益地政学的利益や経済利益)など、要は人類が行動するときの「目的」に据えられる理念を指す。制度というのはその目的に即して形成される各種の社会的枠組み、例えば法律制度が代表例である。技術はこれら抽象的な「虚構」と「現実」をつなぐものであって、いわゆる財の生産・流通を可能たらしめるノウハウの総体である。これらは互いに影響しあっていて、一方通行ではない。「富国強兵」という思想が経済促進政策という制度を形成し、その中で各種の技術革新が生まれる、といったストーリーもあれば、人工知能のような技術革新が思想や制度に変化を促すケースもある。21世紀最大の地政学的イベントとも言われる北米シェール革命も、資源生産に関わる技術革新が米国、ひいては国際関係におけるダイナミズムという「虚構」に作用し、原油輸出解禁という制度的地殻変動も引き起こした。(ある意味、「制度」は思想と技術を媒介するに過ぎないから、トライアングルではなく両輪と捉えても良いかもしれない)

 世の中が大きく動くときは、思想と技術のギアが噛み合って、両者の間に正のフィードバックループが働いているはずだ。15世紀以降の大航海時代は「スペイン・ポルトガルの経済的・地政学的利益追及」「カトリックの世界展開」という強力な「虚構」のドライブと、中世より蓄積されていた造船及び航海に関するイノベーションが噛み合った。

 僕のライフテーマである「海とエネルギーから考える文明論」という文脈でこの構造を見てみる。「海」の分野に存在する強力な思想は「地政学」と「環境」だろう。エネルギーでは「成長」と「環境」、ちょこっと「地政学」だろうか。結局のところ、「国益」という個別的な価値と「環境」という普遍的な価値の相克がそこにはありそうだ。技術でいえば、伝統的造船業に加え先端的な材料工学、そしてロボティクスと人工知能の波が押し寄せている。

 思想を掲げる「国家」や「NGO」、技術を提供する「エネルギー企業」「IT企業」といった、4つのプレイヤーが入り乱れる世界が見えてくる。マトリクスで整理するならば、「国家×エネルギー」は伝統的な石油ガス等開発事業が、「国家×IT」は海に限ればスマート漁業、海洋モニタリングや海底ケーブルの管理、「NGO×エネルギー」は小規模な海洋再生可能エネルギー事業、そすて「NGO×IT」は仮想通貨を用いた洋上都市経済圏プロジェクトのような、シリコンバレー長者のお遊び感が少しあるdream projectといったところだろうか。

 現代社会においてNGOのような非政府組織は確かに影響力を持つが国家には及ばない。資源動員力において主権国家の力は相当に強い。だから海洋開発はほとんどが国家主導の石油開発プロジェクトなのだ。その意味で中国の海洋政策は強力だと思う。産業も自在にコントロールできるから、思想と技術を両輪で回すことができ、「国益」をフルセットで追求できる。メタハイの技術開発も日本より先に成功させるだろう。「掘削リグ」は形を変えた空母なのだ。技術を手にした中国は「新時代の空母」を続々と投入し沿海域を文字通り内海化するに違いない。その時は、「環境保全」「責任ある海洋開発」などといった思想が喧伝され国益の野心を覆い隠すだろう。

 僕は地政学という「虚構」からは一旦距離を取って「文明維持KPIとしてのEnergy Return on Investment」という「虚構」を信じている。その観点では、例えば中国が内海化した南シナ海で洋上原発を実用化し技術水準をあげたとしたら、それが原発のリスクを最小化し高品質エネルギーの安定供給を実現するなら、まさに「海×エネルギーによる文明維持」というライフテーマに合致するわけで、自分としてはそれを否定する理由もない。(もちろん中国の進出による地政学的脅威を受けている日本国民としての反感や不安感はある。)

 まあ、結局個人が信奉する「虚構」も多種多様、究極的には皆等しく「虚無」なのだからそこで争っても仕方ないのかもしれない。とはいえそうやって人類は歴史を刻んできた。世界史が面白いのはそういうことだ。