善く生きるとは 2

 「善」の定義は色々厄介なので、とりあえず、自分が幸福であること=善く生きること、としてみる。自分の幸福を形作る要素は何か。

①優しさ、博愛:イエスキリストほどとは言わないが、他人に優しいこと、その中身は、他人の幸福を願い行動することだと思うが、これは「善く生きる」ことと関連があると思われる。

②誠実さ、真実を求める態度:自己満足でなく、相手が本当に望んでいるものは何か、相手の幸福とは何かを徹底的に考える態度、これを誠実さというのだと思うが、これもまた、善い態度だろう。

③自分自身の快楽:エピクロスが言うように、自分の趣味、嗜好、興味、それを見つめて鑑賞するのは人間的な営みだと思えるし、何より、自分の快楽を徹底的に排除した氷のような人生は、少なくとも歩める自信がない。よって多かれ少なかれ、自分の快楽を無視するわけにはいくまい。

 

 この三要素は、明らかに、潜在的対立を秘めている。博愛が善であり正義だという立場を貫こうとすれば、自分の財産を全て寄付したり、危険を冒して人助けをしたりしないといけなくなる。それは往々にして自分の快楽と反する。そしてまた、その博愛主義から繰り出される行為が本当に人々を幸福にしているのか、そう言う抑制的・懐疑的な内省と衝動的・行動的な博愛は時に対立する。「正義」の名の下に他者を殴り倒す光景がまま見られるが、これも、肥大して独善と化した博愛主義が、相手の気持ちを考える誠実さを制圧することから生まれる。

 同様に、誠実であろうとするあまり、あらゆる価値の相対性、虚無性を悟れば、そこにあるのはニヒリズムである。ニヒリズムを盾にして、心から湧き出る親切さや愛まで否定すれば、そこにはもはや人間性のかけらもないのであって、「善い生き方」に繋がるとは思えない。またどれだけ価値の相対性を声高に主張しても、現にこの自分自身には明らかに嗜好があるのであって、その事実は揺るがすことができない。

 自分の快楽こそが善であると言うのは一見スッキリした理解である。人助けがしたい(それが自分の精神的快楽になる)のなら、すればよい。しかし、どんなに憎く嫌いな相手でも、助けることが正しいと信じざるを得ない状況も存在するのであって、この時、快楽主義の砦は盤石ではない。

 それぞれ異なるこの三つの立場が三権分立の如く互いに睨みを利かせ、それでいてバランスを保っている時、その生き方は「善い」、従って幸福なのではないか。アウグスティヌス的な博愛、ソクラテス的な真理への誠実さ、エピクロス的な快楽と美意識の洗練、それらの節度ある統合。

 

 博愛に基づいて、世界中の人々の幸福に貢献したいというのは善いことだろう。しかし慎重にならねばならない。もしそのために公権力(狭義の政府のみならず、広い意味での公共資源。知名度、富など)にアクセスして力を振るおうというのなら、尚更である。その「善意の強制」によって不幸になる人の可能性を考慮せねばならない。石油文明たる現代社会の福利厚生を維持すべく石油生産に従事するという人は、開発で破壊される土地や共同体、それにより苦しむ人々、あるいは、地球温暖化で苦しむ将来世代の苦悩を直視して鞭打たれねばならない。将来世代のために化石燃料を排除すべしという人は、経済の縮小により生じる失業や停電、電気料金高騰による苦しみを知らねばならない。平和のために軍事基地が必要だと主張するのなら、基地建設・軍隊の存在により生じる誰かの痛みを受け止めねばならない。軍隊こそが戦争の原因だと言って軍縮を主張する人は、敵国より不利な状況に置かれることで不安に苛まれる人の苦しみを見つめるべきだろう。もちろん、情報不足によって「非合理的な」認知が形成されている時、それを「正す」のは博愛精神から見ればおかしなことではないが、それでも埋まらない認知の差は知っておくべきであろう。徹底的に誠実な立場に立てば、他人の幸福など完全に知ることなどできないのだから、出すぎた真似はするな、ということになろう。

 しかしアノニムな世間一般、人類や国民と言った抽象的対象に働きかけることだけが博愛ではなかろう。「隣人愛」の言葉が示す通り、まずは自分の周囲の人間に徹底的に向き合うことこそが、博愛と誠実さが調和したあり方ではないか。「人類一般の正義」は語れなくとも、顔の見える隣人との絶え間ざる対話を経ることで、家族内の正義、地域社会の正義、あるいは会社の正義は語れるのではないか。この微かな希望を抱いて、地に足のついた人生を送りたいものである。