善く生きるとは 3

結局まとめると、私にとっての「善い生き方」は以下3点をバランスよく実現している状態のことを言うのではと暫定的に結論付けた。

1:自分自身が幸福でいること

2:可能な限り多くの他者を幸福にすること

3:誰も不幸にしないこと

 

1は、ストア哲学におけるアタラクシア、すなわち不動心の獲得。アタラクシアの砦を築きそこに安住することが自分の幸福。

2は利他的精神の勧めなのであるが、独善的になってはいけないと言うことで3の縛りをかけている。親切心で他者に何かを勧める時は、それが本当に相手の幸福になっているかをキリキリと考えねばならない。この思慮深さを徹底すると、凡そ断定的なことや強制的なことは誰にも言えなくなる。だからと言って他者との関わりを放棄して自分の幸福の砦に閉じこもるのは、「善い」態度とは思えない。この絶妙なバランスをいかに取るか。

 具体的に言うと、例えば耳障りのよい「公益的なこと」も、具に見ると誰かの抑圧を前提していたり(つまり誰かを不幸にしているあるいはその不幸を容認している)するので、私的には「善くない」。関わる人全員と腹割って対話して、全員が納得いく合意をして全員が幸福になるあるいは不幸にはならないと言う状況があれば理想的だが、それが可能なのは極小の共同体のみであろう。現代の公共空間では全員が直接話すことすら不可能であって、そこで「公益」と言ってみても、「多数派にとって気持ちの良い何か」以上の意味はないでしょう。それを推し進めるのは排除された人々の不幸を「公共善」の偽装のもとで容認・固定化・正当化するものであって、善くない。

 もっと突き詰めると、私の幸福すら、誰かの不幸を下敷きにしている。今日も吉野家の牛丼を食べたが、あの牛丼サプライチェーンにおけるエコロジカルフットプリントを考慮すれば、地球環境負荷を良しとしない人々の苦痛に私は加担していることになる。現代のグローバルサプライチェーン時代においては、普通に暮らすだけで、世界の誰かの不幸に加担しているので、もはや生きていることすら「善くない」となりうる。

 これに対する回答の一つは自給自足かもしれない。自分の生存を自分で完結させれば、誰かの不幸に加担することはない、よってこれが善い生き方の必要条件であろう。しかし山奥の隠者となって、2つ目の戒律をいかに守るのか。これが難しい。

 「山奥の聖職者」は一つのロールモデルかもしれない。一切の強制力は持たぬまま、生き方について、思想を人々に伝えることで、その人の幸福に貢献する。資源減耗社会では物理的制約が顕在化してくるので、賃金や政治参加等で制約が出てくる局面も増えよう。そこにおいて現代的物質主義・拡大・成長主義に浸っていれば「無い物ねだり」が続くばかりで幸福になれぬから、ストア哲学のような、内面に幸福の砦を築く方法論は、誰かしらの救済になるであろう。「足るを知れ」というこの教えは外的要因(資源配分)と幸福を切り離すので、理論上、誰も不幸にせずその人を幸福にできる。但しこの考えに改宗せよ、と武力で強制したり公共電波や資本、名声という資源を動員してある種のパワーを行使するのはダメ(相手にとってありがた迷惑になるから。)あくまで通りすがりの旅人のごとく、しかし真摯に思想を語る。受容するか否かは相手次第。こういう「受動的貢献」態度こそが、1−3を満足する、すなわち「善く生きる」ための現実的解かもしれない。

 では今すぐ会社も辞めて「自給自足・山の仙人」になるべく「転職活動」をするか、というと、厳しいものもある。今の快適な暮らしを捨てる覚悟はまだ持てない。1と2及び3が対立しているのだ。しかし目指す方向性として、「自給自足的聖職者」というものがあることを明確化しただけ、良しとしておこう。