趣味としての靴磨き 〜鏡面仕上げ〜

最近靴磨きにはまっている。もともと靴や鞄といった革製品が好きだったが、靴に関してはそれほどこだわることもなく、それっぽい革靴を、適当にクリームを塗って履いてきた。去年くらいから、ちゃんとしたファッションとして靴を履きこなそうという思いが湧いてきて、製法とか種類とか、手入れ方法をある程度まともに勉強するようになったわけです。

 紳士靴本を買うと、絶対出てくるのが鏡面仕上げ。ガラスコーティングされた靴なら別だが、革は本来ピカピカしているものではない。例えば革に手や顔が反射することは基本的にはない。が、鏡面仕上げをすると、文字どおり鏡のように、周りの造形が反射して見えるのだ!これはやってみるしかない、ということで挑戦してみた。

 

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なんとなく、スマホを持つ自分が反射しているのがわかる。見事、ピカピカになった!

使用した油性クリームはブートブラックのポリッシュ。古着のシャツを切り裂いて磨き用とし、クリームを円状に塗ったら、水を垂らしてなじませる。最初はうまくいかなかったが、慣れてくると、クリームが革に馴染んで膜ができていく感覚みたいなものが指先に伝わってくる。クリームと水の微妙なバランスが絶妙にマッチした時、気持ちいい光沢が現れるのです。

f:id:Schoolboy:20180116211334j:plain缶のデザインがお洒落ですな

 

奥深き靴の世界にはまだ入ったばかり。もっと探求していきたい所存です。

 

 

 

 

 

フェルナン・ブローデル『地中海』

『地中海』を買ってしまった。最初の一巻だけで、まだ読み始めたばかり。だがこれがアカデミズムの一派を作り上げた記念碑的作品なのか、と思うほどの滑らかさ、饒舌さ、情景の豊かさがある。僕が好きな作家・ジャーナリスト、例えば元Atlantic誌のカプランや、度々言及しているパラグ=カンナといった人たちの語り口に近いものがある。いや、彼らこそがアナール学派の総帥にして20世紀最大の歴史家とも言われるブローデルに倣っているのやもしれない。そういえば、カプランの『地政学の逆襲』には、ブローデルの名前が言及されていた。

 大げさに言えば、紀行文のような軽妙さだろうか。古代ギリシアの偉大な歴史家にして冒険家でもあるヘロドトスが書いた『歴史』にも似た雰囲気があったような。いずれも地誌や文化・習俗への考察を豊富に含み、技術、社会制度、政治体制へと駒を進めていく。ブローデルの提示する枠組みもまさにこれと同様だ。ウェストファリア以降の国民国家制度が常識となる中で、歴史といえば専ら政治・外交史に独占されてきたが、国民国家意識が希薄だった中世、あるいはもっと原始的な古代においては、ブローデル的な歴史観がむしろ一般的だったのかもしれない。もっとも欧州中世はキリスト教の存在感が大きすぎるから少し違うかもしれないが。

 この地域にはエキゾチックで不思議な魅力がある。例えばシロッコ、ギブリ、ミストラル。このオシャレな横文字はいずれも地中海周辺の季節風だが、そのオシャレさゆえにクルマの名前にもなっている。フォルクスワーゲンのホットなハッチバックシロッコだし、セクシーなマセラティ「ギブリ」も然りだ。スタジオ「ジブリ」はイタリア空軍の偵察機の名前から取られたのは有名な逸話だが、この偵察機の名は「ギブリ」で、やはり風の名前なのだ。

 あー旅がしたい。

 

core preferenceと心の安定

「なんか好きな雰囲気だな」と感じる色彩、風景、世界観、写真は、人によって収斂してくると思う。最近インスタを再稼働させて改めてそう思った。とりとめもなく「いいね」していった写真を後で振り返ると、同じパターンにまとまっているのだ。僕の場合、革製品、アウトドア(焚火)、自転車、クラシックカー、帆船といった類になっている。この「パターン」を言葉にできないものか、そう思い始めて早数年が経つ。

 一つの結論は、「自然、クラフト、歴史」というもの。歴史は範囲があまりに広いが、フェルナン・ブローデルからマッキンダー、パラグカンナがそうであるように、地理と人間の関係性に焦点を当てた歴史の語りが特に好きだ。ある意味、「自然とクラフト(=人の手、工学体系)が歴史を造る」という考えとも言える。このブログでもしつこく言及しているエネルギー論、文明論、地政学は、まさにこうした興味の表れということになる。

 この三点セットを嗜好の最大公約数あるいは「core preference」と捉えると、自分の感情がとてもスッキリしてくる。いわば、コアから派生して、「これも興味あるよね?」と自分に問いかけることができ、趣味や興味の対象がどんどん広がるのだ。例えば「クラフト」という文脈を派生させて、「楽器」に至り、すでにウクレレをポロポロ弾いている。昔ピアノをやっていたので音楽には全く無縁ではなかったが、こういう内省をしなかったらわざわざ買おうとも思わなかったと思う。次はアコギ、クラシックギターも狙っている。あるいは「自然」。すでにサイクリングを趣味としているが、多分サーフィンやセーリングカヤック、登山なんかもハマると思う。もう一つの「歴史」について、ブログを始めたのはまさにこの点に由来する。仕事がエネルギー関連なので本業もここから派生しているが、自分の言葉で歴史文明を語りたい、そういう衝動で始めたのがこのブログだった。

 「自分はこれが好き」というのをはっきり言語化して持っていること真の意義は、上で述べたように趣味が広がることでは多分なくて、もっとシリアスなものだ。いわば人格の幹になるものだと思う。まず評価の尺度において他人に翻弄されずに済む。評価軸を他人に委ねると、自己肯定感が他者評価に依存するようになり、自分の中身がどんどん希薄化する。常にSNSで自分を着飾り、他者より「充実していそう」と見せることが目的になってしまう。それはそれでいいのだが、その他者は非常に無責任なので、自分の幸せを預けるには少々頼りないと僕は思う。

 次に、自分の好きなものがはっきりしている人は、心にゆとりができ、他人をリスペクトできるようになると思う。例えば、僕は今靴磨きにはまっているわけだが、インスタでピッカピカに鏡面磨きする人を見ると、弟子入りしたいと思うほどである。これが、自分の嗜好が曖昧で、「なんかカッコ良さげ」に見えることしか考えない人は、自分よりかっこよさげな人をリスペクトする余裕がない。それは自分の幸福を減少させるからだ。つまり他者との関係性において余裕がないのである。人をリスペクトできる人は、その人自身もリスペクトされやすい。心のゆとりが豊かな人間関係を築くのだ。

 ちなみに、好きなものを否定されて怒る人がいるが、僕は、そういう人は本当にそれが好きなわけではないのでは、と感じる。本当に好きであれば、その良さがわからない人を憐れみ宣教しようとはしても、怒るはずがない。怒るのは、それが好きであることがなんかカッコ良さげだと思っていたのに、実はそうではない、お前は全然カッコよくないぞという相手からの宣戦布告に対する衝動反応だろう。坂バカサイクリストが、「好きでそんな苦行するなんて、へんな人だね〜暇だね〜」とdisられた時に浮かべる、あのアンニュイな表情、「君には、この悦びがわからねぇだろうな〜」という顔にこそ、「好き」の本質が表れているのだ。

 自分のcore preferenceをしっかり捉えれば、心は大地に根を下ろしたがごとく安定する。2018年、coreをさらに固めつつ、色々新しいことにもチャレンジしたいなー。

 

 

 

 

アラブvsユダヤの終わり

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イスラエルとアラブは因縁の仲、と言うことで我々は長らく学校で教わってきたわけだが、イスラエルの第一の敵はイランで、これは多分昔からそう。パレスチナとの戦いはあるかもしれんが、イスラエルが圧倒的優位であって、必ずしも「脅威」ではない。技術、国力からして本当に怖いのはイランであるわけで、北方のならず者、ヒズボラもイランの出先機関であるわけです。

 サウジはパラノイア的にイランを敵視し、過剰反応を繰り広げているが、流石はイスラエル、この機会を逃すことはしない。国交が無いのに、とはいっても非公式なネットワークはあるはずだが、掲載記事の通り連携を呼びかけている。サウジは「同胞民族」としてのパレスチナ人を守るとかいっているが、そんなのは表層で、混乱の本質は中東の覇権をめぐるイランとの地政学ゲームであり、そこに複雑に宗派が絡み合っている、これこそ中東狂想曲の主軸プロットであって、自分らの「盟主」たるサウジがこうも簡単にユダヤ人と手を組むとなれば、これを聞いたパレスチナはどう思うのか。もっとも、サウジはまだ返事をしていないが、ネガティブな答えは出さないだろう。

 このように中東は世界でも珍しいくらいに近代的、19世紀的だ。中国やロシアの動きも19世紀的な部分があるかもしれないが、中東に比べればだいぶん20世紀的、つまりは経済相互依存を前提とした「紳士的」さがある。すなわちすぐにミサイルを撃つような激しさの代わりに、通商交渉やプロパガンダ、人権問題、多種多様な政治経済アジェンダを組み合わせた総合格闘技(直接殴りはしないが)を巧妙に遂行している。中東だけはロンドンイーストエンドの酒場よろしく腕力がモノを言う。(ゆえに中東は圧倒的にinteresting to watchな訳です)

 ところで、中東はこんなに刺激と危険に満ちているのに、そこに石油という基幹資源を依存する世界文明はやたらと呑気では無いか。確かにISISが台頭したにもかかわらず中東の石油生産は落ちるどころか、価格維持のため減産するくらいだ。サウジの油田も極めて重厚に警備されているだろう。だがイエメンからミサイルが空港上空まで到達し、さらに油田地帯であるサウジ東部はシーア派の牙城となれば、誰が油断できるだろうか。

 中途半端に原油需要が減り価格低迷が続けば、コスト高な生産者、生産地域は衰退する。それは世界の中東依存度上昇を意味する。つまりは供給リスクの増大を意味する。気候変動のための脱石油は意義ある取り組みだと思うが、ソフトランディングのための方策も忘れてはならない。つまりは石油ガス生産のさらなる最適化、産地多様化、あるいは原子力の有効活用だ。原子力も、石油も石炭も天然ガスも、もちろん太陽光も風力も、方法は多ければ多いほど良い。どれかを褒めそやしどれかを否定するような態度は、控えめにいっても愚かという他ないだろう。

 

 

沸騰するルブアルハリ

 サウジアラビアが超ホットである。外部要因としてイエメンからのミサイル攻撃と撃墜、レバノンによる宣戦布告(とサウジが勝手に言っているもの)、内部要因としては王族ら超有力者の急激な粛清、そしてウラン濃縮ニュースまで飛び出している。ぬるま湯に浸かってきた「温室王国」が、急に灼熱の沸騰釜と化している。

 この王国の改革はマッキンゼーが絡んでいるくらいで、そもそも民主主義でもないので、企業経営の視点で見ることもアリかと思うが、その意味で、サウジの固定費は王族の生活費なので、王族を次々パージするのはある意味「リストラ」として筋が通っている。三枝匡の経営本など読むと、企業の急進的改革は強大なスポンサーの後ろ盾の元、腹の据わったリーダーが命運をかけて挑む必要がある、と書かれているが、サルマン国王の元でMbSが爆走するというのは、ある意味勝ちパターンなのかもしれない。問題は、リストラされる対象がそこら辺のサラリーマンではなく、地球上で最も裕福な部類に入る「王族」であるという点だ。僕自身は2014年に油価が暴落してから、2020までにサウジ内政はメルトダウン(=原油爆上げ)という考えを数年来持っているし、今でもメルトダウンは近いと思っているが、もしかするともしかして、改革が成功する可能性も3割くらいある気がしている。

 7割で失敗すると考える理由は、王族によるバックラッシュももちろんだが、中東の地政学が大きい。中東の主要プレイヤーはサウジ、イラン、イスラエル、そして外部の大国としてアメリカ、ロシア、ちょこっと中国といった感じだと思うが、サウジの改革はやはりイランに相当翻弄されると思われる。イランからのあの手この手の介入は、対応する軍事費や政治的資源の浪費を促し、国内政治への集中を困難にする。社内の急激リストラをしている最中に、敵対的買収をかけられるようなものだ。こんなのは、まず持って対応できないだろう。現に、シリア、レバノンヒズボラ)、イエメンはイラン枢軸として影響力をますます高めている。イランは否定しているが、イエメンからのミサイル技術にはイランの影がちらつく。サウジはアメリカの後ろ盾はあるものの、シェール革命による石油依存度低下を経た米国は、10年前に比べ、サウジを守る必然性はあまりない。今トランプ政権がサウジにラブコールを送るのは、トランプ大統領の個人的なイラン嫌いによるものが大きく、米国の戦略的利益を突き詰めた対応とはあまり思えない。イラン市場を開放すれば、ボーイングは沢山飛行機を売れるのだ!

 さらに言うと、中東における盟主は、モーゲンソーの国力の視点から見れば、どう考えてもイランである。現にアメリカはイランを地域大国として据えたがイラン革命で失敗し、代わりにサウジを支援してカウンターした。イラン革命でひどい目にあったからといって、外交もずっと断絶してしまうのは、ちと神経質ではないか、と思えなくもない。イランには優れた文化も、資源も、人口も市場もある。何より民主主義が根付いている。(僕は民主主義信者ではない、が、石打ちや鞭打ちをする王国より親近感は持てる)私見だが、国際社会はイランを受け入れ、中東の盟主として歓迎すべきだろう。(イスラエルは黙っていないだろうが。。)

 トランプ政権が強硬な姿勢で核合意を破棄すればイランの本当の核開発リスクは高まる。するとイスラエルによる先制攻撃が起こる(=戦争が勃発する)、サウジの核武装が現実化する、部分的な国家崩壊とテロリストへの核物質拡散、といった地獄絵図が簡単にイメージできる。是非とも核合意を維持し、市場を解放させ、「接続性」を構築し、ペルシャの栄光を再び拝みたいものだ。アラブの帝国後は、ペルシャの帝国になる。これは歴史的転換(回帰)である。

 それから、アラムコIPOの件もある。これだけ急激な粛清をする独裁国家に、安心して投資できるだろうか。著名投資家でもある王族がホテルに監禁され、噂では床で寝ているといった状況を見るにつけ、投資先としてのサウジはちとハイリスクすぎる気もする。

 結局、サウジアラビア戦後レジーム、米国主導のリベラルオーダーにおける世界のガソリンタンクに過ぎなかったのであり、アメリカの衰退や保護主義の高まりにより戦後レジームが転換すれば、必然的に役割が変わる。石油は依然として重要だし貴重だが、世界はもはやサウジだけに頼ってはいない。南北アメリカは近く原油の自給を達成するだろうし、アフリカ欧州も同様だ。原油のような重要物資は、多少のプレミアムなら支払って自給するのが政治的に正しい選択だ、少なくともそう言う意見が重みを持つ時代になりつつある。すると中東に依然として依存するのは、自給が地質的に困難なアジアだけなのだ。サウジは「世界の」ガソリンタンクから「中華の」ガソリンタンクに格下げされる。それは今までように華やかなものではない。その姿は世界経済の中心などではなく、中華の辺境、有用なる夷狄に堕すであろう。

データは新しい石油か

IT時代、いやビッグデータ時代、基いAI時代において、データは21世紀の石油だと言われる。データが重要でかつ金を生むのは肌感覚で十分理解できるが、果たして石油に相当するものなのか、というのは、まだ整理がついていない。

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 20世紀の石油はダニエルヤーギンが『石油の世紀』で描いた通り、政治経済の中心をなす存在だった。石炭時代が終わり動力源が石油に移行したことで産業構造も大きな転換を遂げたのだった。前世紀末からの情報革命を経て、スマホの台頭によりここ10年で急速に情報化が進み、確かにデータが政治経済の文脈で持つ重要性は凄まじいものがあるのは事実だ。上記エコノミストの記事にもあるように、今や経済活動、営利活動の根本にはデータがある。マーケティングの本質は消費者行動を読み制御することかもしれないが、データは消費者自身より雄弁にその人を描いてくれる。

 ところが文明的な視点、あるいはビッグヒストリーの視点で見ると、人類が経験した「革命」はいずれもエネルギーに関連するものだった。中世農業革命も、家畜駆動のトラクター(重量有輪棃)と鉄製農具によるもので、いわば食料生産のEROI (Energy Return on Investment)を高める革命だったと言える。18世紀産業革命自然エネルギーから化石燃料の移行によるものだ。ITは流通コストを極限まで下げたが、それ自体がモノを動かしたり人を肥やすものではない。IT革命の歴史的意義はどちらかというとグーテンベルク活版印刷に近いのではないか、とも思えてくる。とすると、データと石油は歴史的意義のカテゴリー、土俵が少し違う気もする。産業革命からの急激な人口増大は、明らかに動力源の移行によるものだ。余剰エネルギーが増えることで社会は豊かになったのだ。ITは作業の効率化を達成してくれるが、それ自体はエネルギーを生むわけではない。ロボットも、電池が切れれば動かない。

 一方で、AIのインパクトは、何となくだが凄いものになる気もする。シンギュラリティがくれば人間はロボットに勝てない、優秀なロボットがさらに優秀なロボットを生産し、社会活動の「ループ」から人間が除外される。SF作家が何十年も前から予見していたシナリオは、いよいよ現実感を持ち始めている。仮にそう言ったターミネーター的世界がやってくるならば、それは「人類の歴史の終わり」であり、人類の歴史において語られてきた従来のエネルギー革命とは質が全く違う。つまり、IT革命は従来の意味での革命ではないが、それを凌駕する異次元の革命の基礎になっている可能性がある。

 ロボットが人間の意思決定を支配する世界では、人間の尊厳はどうなるのだろうか。ロボットは哲学をするのだろうか。ロボットは政治をするのだろうか。人類の歴史上何度も戦いが行われた。奴隷対地主、平民対王族、労働者対資本家。ただ人間対ロボットにおいて、十分進化したロボットの思考は誰も理解できない。こんな戦いは今までなかったのだから、歴史家にも行く末はわからない。誰もわからないのだ。

 シンギュラリティは禍々しく謎に満ちているが、それが起きないのだとすれば、「人類の歴史」は継続する。そして、人類の歴史は人間という動物の歴史であり、エネルギーの歴史が続くことを意味している。一見すると潤沢なエネルギーだが、EROIは右肩下がりだ。安い石油が底をつくとき、データは役には立たない。オールドエコノミーという煤まみれの機関室から燃料が尽きたとき、人類文明という空中楼閣は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちるだろう。

 

 

 

学生的思考回路における企業の「すごさ」

 たまたま就活学生と話す機会があった。誰だって「すごい」「かっこいい」企業に行きたいわけだが、「すごさ」とは何なのか。売り上げが大きいと「すごい」のか。数千億円投資している会社は「すごい」のか。思うに、「すごさ」は戦略優位があるかどうかに尽きると思う。食物連鎖の頂点にいるライオンはカッコよくはあるが、「すごい」のかというと分からない。ティラノサウルスが無残に死に絶えた中生き残っているゴキブリは気持ち悪いがよっぽど「すごい」かもしれない。生存、繁栄のための「戦略性」こそが、「すごさ」の本質ではないか。

 戦略とは何かというと、相手に対して優位に立つための方策だと思う。ビジネスでは競争優位という言葉があって、一般には競合企業に対する優位と解釈されていると思う。が、僕はあえて、競合企業ではなく顧客とサプライヤーに対する優位こそ重要と考える。より正確にいうと、競合に対する優位は顧客・サプライヤーとの関係性の一側面に過ぎない。

 ある関係における立場の優位性とは、依存という概念と深い関わりがある。相手が自分に依存し、自分は相手に依存しないとき、こちらは極めて優位な状況にある。相手もこちらも互いに依存するときは引き分け、こちらだけ依存するとき、それはすでに敗北である。喩えは悪いが、モテモテの美女は数多の男にアプローチされているから、特定の男に依存しないが、その美女に首ったけな大してモテない男はというと依存状況にある。つまり対等な関係ではない。ビジネスでも、サプライチェーン上のボトルネックを支配する企業はやはり強い。ニッチ分野だが世界シェア1位といった企業がこれに該当するのだろう。顧客もサプライヤーも、それぞれ自分に依存させられるからだ。そして自分はどちらとの関係においても依存しない。これぞ最強である。

 この考えに則ると、コストリーダーシップは、最強の戦略ではない。なぜなら代替可能な存在に甘んじているからだ。家計を気にする独身サラリーマンは夕食を500円に抑えるべく吉野家に行くが、状況によっては800円を払って中華屋に入ったって良い。安いのは価値ではあるが、相対的価値に過ぎない。一方圧倒的なケイパビリティは、代替不能性という究極の優位を与えてくれる。街に医者が一つしかなければ、どれだけその医者が嫌いでもいかざるを得ないのだ。

 石油ガスの世界ではどうなるだろう。アップストリームに限定し、産油国、石油会社、コントラクター・サービスプロバイダーの関係性を見てみる。ポイントは「ボトルネック」つまり稀少性である。まず産油国が稀少だ。だから産油国政府や国営石油会社は非常に強い。石油会社は昔ならメジャーの存在感が際立っていたが、国営石油会社の台頭により陰っている部分もある。ドリリング、井戸元開発、プラットフォームでは、それぞれ寡占が進んでおりある種のボトルネックになっている。だが、油価が低い場合は開発案件が極端に減ることで石油会社が有利になる。一方油価が上がれば開発案件が増え、自社キャパ以上に引き合いが来ることになりコントラクターが優位に立つはずだ。つまり石油会社の戦略は、高油価においてもいかにサプライヤーを安く使うかが肝要になり、コントラクターは、低油価時代にいかに収益を安定させるかが肝になる。

 ちなみにサプライチェーンボトルネックを見極めるのはポーター的発想で、その隙間に陣取るためにはバーニー的発想の経営努力が必要になる。言うまでもなく両者は車の両輪であろう。

 学生との会話からこんなことを思った。大きいばかりが取り柄の企業でなく、戦略優位を理解したニッチ企業なんていうのも、面白いではないか。