善く生きるとは 6

 「誰も不幸にしない」を徹底しようとこの一週間過ごしてみたが、発狂しそうである。どう考えても普通に生きているだけで誰かを害しているし、まして石油開発などというビッグ・ビジネスに関与すれば否応無しに誰かの機嫌を損なっているだろう。

 そこで少し戒律に変更を加えてみたい。

 

「誰も害するな。但し自分の核心的利益(Critical Core: CC)を守るために必要であるときは、この限りでない」

 

 まあごく普通の、それこそ古今東西の掟に共通していそうな戒律なのだが。このポイントは「自分の命とか、人によっては信仰とか、とにかく大事なものを守るためなら、人を害しても仕方ないよね」という妥協である。怠惰と言われればそこまでだが、正気を保つために必須であると判断した。

 他者と共存すれば色々な摩擦があり、自分のCCが脅かされる瞬間はある。その時、この戒律に従うならば、人には反撃権(自衛権とでも言おうか。自然法みたいだね)が生じる。興味深い事に、近代国民国家における社会契約論は、この各人が保持する自衛権を政府に移譲して、政府が代理行使する、みたいな建てつけであると気づく。但し政治領域においてはそうでもない。例えば軍事的に優越する隣のA国との外交政策をめぐり、怖いから大人しく服従しようという人と、自国のプライドにかけて断固立ち向かうべきという人もいて、そういう政策がそれぞれのCCに直結するとき、政治的闘争は不可避である。現実的には選挙という方法を通じて多数決で決着がついてしまう。負けた方に救済はない。例えば宥和派(服従派)が買ったとき、強硬派のCCは侵害されているから、それを回復すべく他者を加害する権利が生じるが、それは国家に取り上げられ遂に行使されることもなくドブに捨てられるのである。これは可哀想ではあるが、宥和派も強硬派もそれぞれ正当なCCを巡って闘ったわけであり、その闘い自体は善いかはわからないが少なくとも悪くはない。強いていえば価値中立であろう。(ちなみに、各人のCCは保障されるべきなのにそうなっていないとき、様々な理由で理不尽に抑圧されるとき、法体系という制度の限界を打ち破るべく暴力に訴える=テロリズムが許されるか、というのは興味深い問題かと思う。)

 各人のCCが共通であれば、「誰のCCも犠牲にしない限りで、あらゆる人のCCを保障するよう努めるのが公共善」などと定義できようが、第一に人によりCCは異なり完全に把握するのが非現実的なので、もはや何もできない。仮に同じでも(例えば肉体的健康)、誰のCCも犠牲にせず、という条件はクリアが難しい。有名なトロリー問題も、一人を犠牲にして五人を救う、というのはこの戒律では正当化できない。ちょっと変えて、一人の手首骨折と引き換えに誰かの命を救えるとき、あなたはその人の手首を折るか、という問いも、私は慎重に考えるべきと思う。その人がピアニストで、手こそアイデンティティ、魂の全てという状況だとしたら、そう簡単に手出しはできまい。もし私が手出しするのを正当化するならば、それは死にかけているもう一人が持つ加害権を、私が代理行使するという整理になろうが、この「代理行使」を個人に許可してしまえば、私は世界中の「CCを危機にさらされた人々」が持つ膨大な「加害権」を代理行使することで、圧倒的暴力を放つことが許される事になってしまうが、これは直感に反する。(法的・社会契約論的には、それが許されるのは唯一政府、より厳密には「法体系」である)

 というわけで結局各人にCCがあって、どうしようもなく対立するときはもう相手を害すのは仕方ない、と。漁師がいて魚を捕まえて生きています。ここに魚の権利を主張する人間がいて漁業は魚の権利を侵害するのでやめてください、あなたが漁をする事で私のCCが侵害されます、という人が現れたとしよう。漁師は漁業で生計を立てているのでありその停止はCCに抵触する。是に於て両者は対立する。あとはバトルしてもらうほかない。そのバトルは価値中立である。同様に私は石油開発に従事して生計を立てていますからそれによってCCが侵害されるからやめてくださいと言われたとしたらその主張こそが私のCCを侵害するので闘争に至る。これは仕方ない。怠惰な態度かもしれない。どうだろうか。

善く生きるとは 5

 「誰かを幸せにする」は分かりやすいが、「誰も不幸にしない」を徹底的に考えると行き詰まる。こうして快適な家に住みWifiを利用しながらパソコンを打っている時点で、大量の化石燃料エネルギーを消費しているし、このデバイス製造過程を通じてアフリカの児童労働や中国における有毒化学物質汚染に関与していることになる。「文明人」でいるだけで誰かの犠牲を強いているのである。

 「善く生きる」を追求する上で、3段階考えてみた。初期段階は「文明人」、次が「未開人」、最後が「死者」である。

 文明人でありながら善く生きるにはどうすればよいだろうか。文明がもたらす弊害を少しでも減らすよう努力することだろうか。例えば電子機器のサプライチェーンから児童労働や有毒物質の排出を減らすよう働きかける、あるいは石油生産における安全性を高めるよう努力する、新薬開発における非人道的な実験を根絶する、危険な核兵器を削減する、など。このように文明が撒き散らす毒素を浄化することは可能であり、そのために献身するのが正しいだろうか。しかし外側から「正義の味方」として当事者を声高に、かつ暴力的に非難するような立場にはなりたくない。そこにあるのはモラルハイグランドから相手を殴り倒す残虐性であり、私の追求する善さとはかけ離れている。文明を前提しているのだから、文明自体を批判するのは筋違い(しかもそれは多くの人を不愉快・不幸にするだろう)であって、むしろ文明を支えつつ、ESGのように産業界内部での思想転換、歩み寄りによって文明を解毒する、そういう可能性が探れるのではなかろうか。ちなみに私の考える善さとは「誰も不幸にしない」かつ「誰かを幸福にする」であるが、文明に身を置く場合、文明=相互依存システムなので誰かを幸せにしていることは疑いようがない(でなければ文明社会で賃金を得られない)ので考える必要がない。ひたすらに、犠牲を最小化することを考えるのが善い。

 そうはいっても文明は完全には解毒されない。つまり文明社会に生息する限りにおいて誰かの犠牲の上に立つ事になるのであって自分は悪であり続ける。ドラスティックな解脱を求めれば、脱文明化すなわち「未開人」になるほかない。グローバルサプライチェーンから離脱し、完全自給自足を実現する。ソローが『森の生活』で目指したのがこれだったのかは知らんが、そういうイメージ。その中で属する最小コミュニティに献身することが、「誰も不幸にせず、誰かの幸福に貢献する」という、善き生き方の実践になるのではないか。

 但し、最小共同体といえど他者と関わる限りにおいて、悪が生まれるリスクがある。自分の利益と他者の利益がどうしても相反し説得も合意も不可能であれば、どちらかは不幸になるほかないのであり、善くない。こうして、究極の善さの完成として「死」が出てくる。死ねば誰も犠牲にすることはない。しかし誰も幸せにできないではないか?ところが人間は死してなおその人を愛するものの魂にて生き続ける。それならば、肉体の存続すら必要ではない。善くあらんと生きた証が身近な誰かの脳裏に刻まれその人を鼓舞する限りにおいて、死者すら誰かの幸福を支えているのであり、「死」は善の完成を意味する。

  

パイを増やすのは善いのか

  物質的快楽の究極的源泉は石油に代表される一次エネルギーだと思う。エネルギーの化身として財やサービスが存在し、人々の幸福を構成している。食事も教育も医療も娯楽も安全安心(インフラや軍事力)も全てエネルギーの化身である。

 農耕社会成立以来の歴史のいたずらによりエネルギー余剰へのアクセスは偏在している。つまり世の中は格差であふれている。個人間、都市間、国家間あらゆる所に格差が見て取れる。その格差をどう捉え、資源配分につきどういう理想を定義しまた行動するかは、人間の認知・思想次第であり、その配分プロセスが政治だと思う。エネルギー余剰すなわち人類が享受できる資源量を一定とすると、物理的側面で見れば、資源配分はゼロサムゲームである。消費しきれない食料やガラクタを抱える人間がいる一方で餓死寸前の人間がいる時、それはエネルギー余剰へのアクセス偏在を示している。公権力が富者をして貧者への富移転を強制せしめるとすれば、富者の反感を買うことは明らかであり、こうした政策が無条件に善いとも言えない。(もちろん善いという意見もある)

 ところでエネルギー余剰の総量を増やすことは、「誰も不幸にせず誰かを幸福にする=パレート改善」になるのではないだろうか。もちろんここでの「幸福」は「物理的快楽」に限定されているけれども。パイの総量が増えれば富者は傷つかず貧者は幸福になる。エネルギー余剰の増加方法として二つ考えてみる。一つは資源採掘量の増大、もう一つは資源利用効率の改善である。

 資源採掘量を増やすのは一番手っ取り早いが環境汚染や気候変動、すなわち地球環境負荷という別問題が浮上してくる。これは採掘現場の周辺住民及び将来世代の物理的快楽と相反するため、「人類全体のために資源開発を推進する」と綺麗事を言っても、数においては少数であろうが誰かしらの物理的快楽を犠牲にしていることになる。

 では資源利用効率の向上はどうか。すでに地上に吸い上げられたエネルギーのうち無駄に捨てられているものの割合を下げるということであり、一見、その向上は誰も傷つけないように思える。具体例として、土地という限られた資源の利用効率を向上させた緑の革命を見てみよう。慢性的飢餓を強いられた人々のうち幾らかはこの革命により恩恵を受け最低限の肉体的幸福を確保するに至ったが、弊害もある。往々にして「効率化」は化石燃料依存・化学薬品依存・機械化・画一化・欧米化といった特徴を備えている。いわば副作用の強いステロイド剤である。伝統的農業は破壊され、地下水は枯渇し、殺虫剤で生態系は破壊される。これらは当初の目論見に反して物質的快楽を妨害するのみならず、現地に根付いた伝統的価値観という精神的苦痛ももたらしかねない。

 もう一つ、自動車の燃費向上を考える。燃費が上がれば単位あたり便益に必要なエネルギー量が減るので、エネルギー余剰は増加するはずである。ただし増加したエネルギーが貧者に移転することはない。エネルギーアクセスは貨幣と引き換えであるから、受益者たるユーザーが貧者に貨幣を移転することなくして、「パレート改善」は生じない。燃費向上の帰結は、節約したガソリン代を使って家族でお寿司を食べる(=追加エネルギー消費)、の類である。よってエネルギー利用効率の改善によってパレート改善を実現するという目論見の行き着く先は、「主たるエネルギー消費者たる富者から貧者に富をいかに移転させるか」という、古典的で答えのないアポリアである。別の例を出すなら、最先端のロジスティクスシステムでコストを極限まで削り「社会の流通効率を上げる」ことで利益を得るのはアマゾンであって、飢餓にあえぐアフリカの子供ではない。我々はアマゾンに、アフリカ支援を強制できるだろうか?もちろんそうして富を増加させた欧米企業がアフリカに投資することで、便益がトリクルダウンされるということもあり得る。ただし緑の革命と同様に、そうした「欧米化・機械化・画一化」により失われる価値もある。

 結局、資源供給量の増大や資源利用効率改善というのは近代化・西洋化とほぼ同義であり、物質的には圧倒的便益をもたらした一方で踏みにじってきた価値もある。また増大したエネルギー余剰は結局富者に集中する(格差拡大)。パイを増やす過程で犠牲になるものもあれば、増やしたところで結局配分が問題になる。

 

 

  

 

 

善く生きるとは 4

 自分の幸福と他人の幸福を目指す、要は「みんな幸せに」生きる世界を究極の理想としてそれに向かう線路を歩むような生き方、が善い生き方なのだと思うのだが、先日来掲げている「誰も不幸にしない」について、何故そうなのか、を考えてみた。

 悪人は幸福になる権利を欠くのであって、ボコられても良いとする考えはむしろ一般的だと思う。ここで生じる問題の一つ目は悪とは何かという定義。一つの仮定義として「他人の不幸を容認するないし積極的に志向する態度を悪」とするならば、「悪人はボコられても良い=悪人は不幸で良い」とする「善人」の態度はそれ自体悪であって、善人すなわち悪人というパラドクスに嵌る。「「善人」の不幸を容認するないし積極的に志向する態度を悪」と定義で妥協すれば、循環参照であり無効な定義となる。なかなか難しい。宗教においては教義において悪が定義されていよう。しかしその定義や解釈は時代や地域によって微妙に異なる。これは善の議論は実体のない抽象概念である以上不可避と思われる。要は、善悪の線引きは非常に曖昧で万人の合意を得るのは困難であることだけはわかる。

 で、上記の前提を踏まえて、「悪をボコって良いのか」という問いに戻ろう。ボコって良いという前提に立つと生じるのは闘争である。異なる教義のぶつかり合いは宗教戦争という明らかに「悪い」(これは直感)事態につながる。この事態を避けるには前提を否定するほかない。すなわち、(その人が考える)悪すらも赦さねばならない。寛容の勧めがここにおいて現れる。(もちろん、この論証で妥協している「宗教戦争は悪」という直感を否定するというやり方もある。イスラームの聖戦に対する態度を見ると、こんな雰囲気を感じる。それもロジカルではあるけど、私の直感には少し合わないかなと。)

 ということで、やはり「誰も(文字通り。極悪人も含めて)不幸にしてはならない」は善の条件として有効に成立するのではないだろうか。

 「私」と他者A、Bの三人がいるとしよう。「私」はストア派的アタラクシアを幸福と据えるがAは名声と名誉を至高価値とし、Bは富及び肉体的快楽を至高価値とする人間であるとする。三者の「幸福」が相容れないとき「私」に何ができるだろうか。(例えば三人で事業を営んでいて、見知らぬ誰かの不幸を招くであろうが我々に莫大な富をもたらすアイデアを採用するか否かで論争しているとして。)

 「自分を幸福にし、誰も不幸にしない限りにおいて誰かを幸福にする」という戒律を厳密に守ろうとすれば、唯一できるのは「説得」ではないだろうか。今、検討されているのは少々グレーだが儲かる話を採用するか否かである。グレーであるというのは「誰も不幸にしない」に反するから、それを行えば「私」の幸福が傷つくのみならず名誉を重んじるBの幸福も傷つく。しかし儲かるのでAは幸福になる。そこで「私」は自分自身の戒律をAに説く。(善く生きるとは、誰も不幸にしないこと云々カンヌン。的な)それでAが心底納得すれば、全員幸福になる。(と、当たり前のことであるが・・)

 もちろんAは納得しないかもしれない。しかし納得するかもしれないのであり、納得した限りにおいて「私」の戒律は全て満たされ、「私の善さ」が証明される。説得に失敗すれば、「私」は悪に留まる。

 近現代的文脈での「公共空間」において同様のことが可能だろうか。パワー(暴力、富、名声その他)を行使して一定の価値観の受容を迫る態度は善いとは思わない。(これも、善いとする考えがあることはわかるが、私の直感と相容れない)それは「説得」ではなく「強制」であって、説得されない状況での強制は相手を不幸にしていると考えるからである。すると「善さ」は一切の強制力を持たずして他者と魂の対話を根気よく続けて説得する他にない。この説得は、「誰も不幸にすることなくその場の幸福を増やす」という意味において、「パレート改善」と言えるだろう。

 よってまとめると、私の考える善き生とは、「魂の対話と説得による半径5Mのパレート改善」ということになろう。(もちろん私の徳が増すにつれ、半径は拡大するだろう。とはいえ、半径6000キロまで拡張する自信は全く持てないが。。)

 まずは自分自身、家族や友人、職場という「対面の人間関係」において、善くあらんとして地道な努力を繰り返す他ない。

 

善く生きるとは 3

結局まとめると、私にとっての「善い生き方」は以下3点をバランスよく実現している状態のことを言うのではと暫定的に結論付けた。

1:自分自身が幸福でいること

2:可能な限り多くの他者を幸福にすること

3:誰も不幸にしないこと

 

1は、ストア哲学におけるアタラクシア、すなわち不動心の獲得。アタラクシアの砦を築きそこに安住することが自分の幸福。

2は利他的精神の勧めなのであるが、独善的になってはいけないと言うことで3の縛りをかけている。親切心で他者に何かを勧める時は、それが本当に相手の幸福になっているかをキリキリと考えねばならない。この思慮深さを徹底すると、凡そ断定的なことや強制的なことは誰にも言えなくなる。だからと言って他者との関わりを放棄して自分の幸福の砦に閉じこもるのは、「善い」態度とは思えない。この絶妙なバランスをいかに取るか。

 具体的に言うと、例えば耳障りのよい「公益的なこと」も、具に見ると誰かの抑圧を前提していたり(つまり誰かを不幸にしているあるいはその不幸を容認している)するので、私的には「善くない」。関わる人全員と腹割って対話して、全員が納得いく合意をして全員が幸福になるあるいは不幸にはならないと言う状況があれば理想的だが、それが可能なのは極小の共同体のみであろう。現代の公共空間では全員が直接話すことすら不可能であって、そこで「公益」と言ってみても、「多数派にとって気持ちの良い何か」以上の意味はないでしょう。それを推し進めるのは排除された人々の不幸を「公共善」の偽装のもとで容認・固定化・正当化するものであって、善くない。

 もっと突き詰めると、私の幸福すら、誰かの不幸を下敷きにしている。今日も吉野家の牛丼を食べたが、あの牛丼サプライチェーンにおけるエコロジカルフットプリントを考慮すれば、地球環境負荷を良しとしない人々の苦痛に私は加担していることになる。現代のグローバルサプライチェーン時代においては、普通に暮らすだけで、世界の誰かの不幸に加担しているので、もはや生きていることすら「善くない」となりうる。

 これに対する回答の一つは自給自足かもしれない。自分の生存を自分で完結させれば、誰かの不幸に加担することはない、よってこれが善い生き方の必要条件であろう。しかし山奥の隠者となって、2つ目の戒律をいかに守るのか。これが難しい。

 「山奥の聖職者」は一つのロールモデルかもしれない。一切の強制力は持たぬまま、生き方について、思想を人々に伝えることで、その人の幸福に貢献する。資源減耗社会では物理的制約が顕在化してくるので、賃金や政治参加等で制約が出てくる局面も増えよう。そこにおいて現代的物質主義・拡大・成長主義に浸っていれば「無い物ねだり」が続くばかりで幸福になれぬから、ストア哲学のような、内面に幸福の砦を築く方法論は、誰かしらの救済になるであろう。「足るを知れ」というこの教えは外的要因(資源配分)と幸福を切り離すので、理論上、誰も不幸にせずその人を幸福にできる。但しこの考えに改宗せよ、と武力で強制したり公共電波や資本、名声という資源を動員してある種のパワーを行使するのはダメ(相手にとってありがた迷惑になるから。)あくまで通りすがりの旅人のごとく、しかし真摯に思想を語る。受容するか否かは相手次第。こういう「受動的貢献」態度こそが、1−3を満足する、すなわち「善く生きる」ための現実的解かもしれない。

 では今すぐ会社も辞めて「自給自足・山の仙人」になるべく「転職活動」をするか、というと、厳しいものもある。今の快適な暮らしを捨てる覚悟はまだ持てない。1と2及び3が対立しているのだ。しかし目指す方向性として、「自給自足的聖職者」というものがあることを明確化しただけ、良しとしておこう。

 

善く生きるとは 2

 「善」の定義は色々厄介なので、とりあえず、自分が幸福であること=善く生きること、としてみる。自分の幸福を形作る要素は何か。

①優しさ、博愛:イエスキリストほどとは言わないが、他人に優しいこと、その中身は、他人の幸福を願い行動することだと思うが、これは「善く生きる」ことと関連があると思われる。

②誠実さ、真実を求める態度:自己満足でなく、相手が本当に望んでいるものは何か、相手の幸福とは何かを徹底的に考える態度、これを誠実さというのだと思うが、これもまた、善い態度だろう。

③自分自身の快楽:エピクロスが言うように、自分の趣味、嗜好、興味、それを見つめて鑑賞するのは人間的な営みだと思えるし、何より、自分の快楽を徹底的に排除した氷のような人生は、少なくとも歩める自信がない。よって多かれ少なかれ、自分の快楽を無視するわけにはいくまい。

 

 この三要素は、明らかに、潜在的対立を秘めている。博愛が善であり正義だという立場を貫こうとすれば、自分の財産を全て寄付したり、危険を冒して人助けをしたりしないといけなくなる。それは往々にして自分の快楽と反する。そしてまた、その博愛主義から繰り出される行為が本当に人々を幸福にしているのか、そう言う抑制的・懐疑的な内省と衝動的・行動的な博愛は時に対立する。「正義」の名の下に他者を殴り倒す光景がまま見られるが、これも、肥大して独善と化した博愛主義が、相手の気持ちを考える誠実さを制圧することから生まれる。

 同様に、誠実であろうとするあまり、あらゆる価値の相対性、虚無性を悟れば、そこにあるのはニヒリズムである。ニヒリズムを盾にして、心から湧き出る親切さや愛まで否定すれば、そこにはもはや人間性のかけらもないのであって、「善い生き方」に繋がるとは思えない。またどれだけ価値の相対性を声高に主張しても、現にこの自分自身には明らかに嗜好があるのであって、その事実は揺るがすことができない。

 自分の快楽こそが善であると言うのは一見スッキリした理解である。人助けがしたい(それが自分の精神的快楽になる)のなら、すればよい。しかし、どんなに憎く嫌いな相手でも、助けることが正しいと信じざるを得ない状況も存在するのであって、この時、快楽主義の砦は盤石ではない。

 それぞれ異なるこの三つの立場が三権分立の如く互いに睨みを利かせ、それでいてバランスを保っている時、その生き方は「善い」、従って幸福なのではないか。アウグスティヌス的な博愛、ソクラテス的な真理への誠実さ、エピクロス的な快楽と美意識の洗練、それらの節度ある統合。

 

 博愛に基づいて、世界中の人々の幸福に貢献したいというのは善いことだろう。しかし慎重にならねばならない。もしそのために公権力(狭義の政府のみならず、広い意味での公共資源。知名度、富など)にアクセスして力を振るおうというのなら、尚更である。その「善意の強制」によって不幸になる人の可能性を考慮せねばならない。石油文明たる現代社会の福利厚生を維持すべく石油生産に従事するという人は、開発で破壊される土地や共同体、それにより苦しむ人々、あるいは、地球温暖化で苦しむ将来世代の苦悩を直視して鞭打たれねばならない。将来世代のために化石燃料を排除すべしという人は、経済の縮小により生じる失業や停電、電気料金高騰による苦しみを知らねばならない。平和のために軍事基地が必要だと主張するのなら、基地建設・軍隊の存在により生じる誰かの痛みを受け止めねばならない。軍隊こそが戦争の原因だと言って軍縮を主張する人は、敵国より不利な状況に置かれることで不安に苛まれる人の苦しみを見つめるべきだろう。もちろん、情報不足によって「非合理的な」認知が形成されている時、それを「正す」のは博愛精神から見ればおかしなことではないが、それでも埋まらない認知の差は知っておくべきであろう。徹底的に誠実な立場に立てば、他人の幸福など完全に知ることなどできないのだから、出すぎた真似はするな、ということになろう。

 しかしアノニムな世間一般、人類や国民と言った抽象的対象に働きかけることだけが博愛ではなかろう。「隣人愛」の言葉が示す通り、まずは自分の周囲の人間に徹底的に向き合うことこそが、博愛と誠実さが調和したあり方ではないか。「人類一般の正義」は語れなくとも、顔の見える隣人との絶え間ざる対話を経ることで、家族内の正義、地域社会の正義、あるいは会社の正義は語れるのではないか。この微かな希望を抱いて、地に足のついた人生を送りたいものである。

 

 

 

善く生きるとは

 人生の目的は何か。幸福になること。では幸福とは何か。善く生きること。善く生きるとは何か。足るを知り、優しさと誠実さを保って生きること。優しさとは何か。他人の幸福を願うこと。誠実さとは何か。責任を全うすること。

 自分の幸福が、善く生きる即ち他人の幸福を願い、同時に、責任を最後まで全うすること、と主張するのは私の勝手であり批判される筋合いはない。一方、私の幸福の条件になっている「他人の幸福を願う」時のその「幸福」とはどんな内容だろうか。それを私が勝手に決めて良いのだろうか。幸福とは何か、というのは、東西の古代哲学者は好んで探求したようであるが、近代以降は下火のようである。化石燃料時代即ち物質主義にあっては、「幸福=快楽」が無条件の前提とされてきたように見える。功利主義自由主義共同体主義、結局全て個人の快楽や欲望の満足度最大化を志向している。幸福とは、というのは時代遅れの宗教家か、エモいポップ・ミュージックでしか聞かれなくなった。しかし、この問いこそが、私にとっては最大級に重要である。

 細かい議論をフォローする余裕はないので、ひとまず、幸福=善とした上で、「幸福=快楽説」と「幸福=魂説」の雑な二分法で話を進めたい。前者は古代ギリシャにおいてはエピクロス派が主張した幸福論に近く、また、現代社会の基盤をなす思想といって差し支えないと思われる。後者はストア派からキリスト教、その他多くの宗教が考えるところの、魂の陶冶、徳の達成こそが善であり幸福だという立場としておく。

 快楽説と魂説で決定的に異なる点は、最大公約的な幸福を観念できるか否かではないか。快楽説ではそれが可能であり、魂説では不可能だと私は感じている。快楽説に立てば、すぐに思いつくのは「肉体の生存・健康は万人共通の快楽=万人の公共善」という論理である。確かに、快楽(不快の欠如と読み替えても良い)が幸福・善であるというとき、肉体的拷問をされている人は決して幸福ではないだろう。病気や痛み、具体的には戦争・飢饉・疫病といった肉体的災厄から逃れることは、疑いようのない公共善であるといっても違和感はないし、事実、近代国家における公共政策が等しく志向するのはこういった「公益」であろう。一方魂説に立てば、こうはいかない。ストア派の哲学者が述べるように、善とは陶冶された精神の状態を言うのであって、外的条件によって左右されない。つまり、戦争・飢饉・疫病の最中にあっても、人間は善を実現しうるのであり、したがって幸福でいられる、ということになろう。また、個々人の精神は全く独立・固有のものであるから、肉体的快楽のような共通性、最大公約的善は観念し得ない。そこでありうる他者貢献とは、布教に代表される「救済」である。

 魂説を採用したとき、私の幸福条件である他者への優しさは具体的にいかに発露・実現されるだろうか。他人の幸福とはその人の精神状況次第であって、私が他人を幸福にするには、精神状況そのものに作用しないといけない。これは大変なことである。少なくとも、普通我々が「仕事」と呼ぶような、アノニムな多数者と触れ合うようないい加減なやり方では到底実現できまい。本気で愛する人、家族のような近しい人間に対して、全力でぶつかり、もがきながら、辛うじて相手の幸せを構成できるか否か、それくらいの大仕事である。もちろん、相手の魂の陶冶に貢献するのであるから、自分自身の魂はピカピカに磨かれ、日々のあらゆる行動に浸透していないといけない。生き様によって善を示すのである。これはとんでもない大事業だろう。

 快楽説においてはどうだろうか。この説に立てば、確かに、万人に妥当する公共善を定義しうるから、それに献身するのが「優しさ」の発露ということになろうか。公共衛生の従事者、例えば国境なき医師団のような人々は、なるほど「善人」のオーラを纏っているではないか!

 魂説、快楽説どちらが正しいかはわからないが、あえて、快楽説批判を行ってみる。批判の第1点目は、「ある欲求を満たして快楽を実現しても、次の欲求が湧き出る。永遠に満たされないのであって、つまり永遠に不幸でしかない」というもの。マズロー欲求段階説が言うように、肉体的欲求が満たされれば精神的欲求が前面に出る。それは満たされることなく永遠に肥大する。物質的には極めて恵まれた現代社会でどうして自殺者が出るのか。欲望の永久サイクルという事実に照らせば、欲望満足=快楽が幸福であるというのは、実現しない蜃気楼を追うようなものであり、筋が悪い。

 批判の第2点目。これはかなり主観的になるが、そもそも、快楽=善だろうか。私は最初に主張したように、善とは優しさと誠実さ、いわゆる義理人情だと今は思っている。大衆からチヤホヤされる名誉や、人を動かす権力や、権勢をひけらかす富、それらを獲得することで得られる精神的満足(快楽)などは、善とは遠いと感じている。これは正直ロジックではなくて、直感、感性、美意識の類だと思う。ましなロジックが思いついたら、その時また書きたい。

 批判の最後は、現実性について。各人が快楽を最大化するとき、物理的には、エネルギーが消費される。エネルギーや資源は有限であり、無限に成長することは許されない。本ブログでも度々言及している通り、エネルギー収支比は減少に転じており、早晩快楽の制限を余儀無くされる局面に入るだろう。そんな時、幸福=快楽=善、などという信念を持っていて、やっていけるだろうか?むしろ、足るを知り、各々が精神の掘り下げだけによって幸福になれるというのは、究極の「エコ」ではないか・・・

 念の為、批判に対する反論も考えておこう。第一批判については、エピクロスがそう主張したように、「肉体と精神の安定」を善=幸福とすれば良いではないか、という考えがありうる。即ち、肉体的健康は大事。同時に、精神の陶冶(欲望の制限)も大事。両輪なのだ、と。これに対しては魂説から以下の再反論が可能だろう。つまり、「本当に肉体的健康は大事か?」と。精神の陶冶即ち禁欲の重要性について合意したならば、どうして、精神的禁欲は可能なのに肉体的禁欲は不可能だと考えるのか。強力な精神の持ち主は、難病の激痛の中でさえ、その魂を躍動させ、美しい生命を燃やす。これ即ち善であり、本人は幸福である。この事実だけで、肉体的条件が善・幸福と無関係であることがわかるのではないか。一度幸福の中身に「欲望のコントロール」という要素を認めてしまえば、行き着く先は「幸福は魂の中にのみ存する。それはいかなる暴力によっても砕くことはできない」という、魂説の主張に行き着くであろう。「肉体と魂のバランス」という主張は一見賢いが、中途半端に禁欲に合意することで、結局魂説の領域に巻き取られている。

 結局のところ、私にとっての暫定的な善・幸福は、まず第一に己の精神を磨き、「足るを知り」ながらも優しさと誠実さを貫くこと。優しさと誠実さの具体像は、自身の「善き生き様」を周囲に示すことで、一定の善のあり方を例示すること。になるかなーと。とりあえず、今の考え。