平和の条件

 大国間の平和共存条件について考えてみた。

  1. 対話/外交:互いの利益に関する明確な相互理解。シグナリング。相互抑止のエスカレーションが慎重に管理される状態。
  2. 軍事力による相互抑止:相互が相手を強烈に害する能力を持ち、かつ、先制された側は反撃力を維持している状態。どちらにとっても武力行使の帰結が自己の破滅であることから、武力行使の合理性が極めて低くなる状態。
  3. 軍事力基盤となる戦略資源の充足:十分な軍事力を維持するために必要なヒト・モノ・カネを、相手のそれを奪取することなく自らの勢力圏から安定入手できる状態。

 

一つ目は割と当たり前なので細かい議論は割愛。個人的には2と3により興味がある。

2の相互抑止は、究極的には核兵器による相互確証破壊。ここで重要なのは「脆弱であり非脆弱であること」、すなわち、相手にやられればそれなりに大変なことになる(=脆弱)一方で、やられても全滅はせず相手を潰す反撃力は維持できる(=非脆弱)という二つの条件が必要。現実的には「敵より強くなりすぎてはいけない」などと考えてわざわざ手加減することにはならず、自らの非脆弱性を高めることにそれぞれ注力するのだと思う。SLBMが核抑止力の花形担っているのも、発見されにくく従って敵の先制攻撃を生き残る可能性が高いからだと理解している。南シナ海が中国軍事戦略上クリティカルなのは、その水深からしSLBM搭載潜水艦を遊弋させるのに不可欠だからだろう。つまりそこに天然資源がなくとも、南シナ海確保は中国の死活的利益と思われる。

 ここで、話はいつの間にか3に移っている。中国の対米抑止力維持のために南シナ海を軍事的に掌握することが必須だと仮定すると、「南シナ海」という「土地・基地(=モノ)」が中国にとっての「戦略資源」ということになろう。次の問いは、同海域は米国の対中国抑止力維持にとっても必須なのか、という点になる。おそらく「重要だが必須ではない」のだと思う。南シナ海を取られても、グアムも沖縄もあるので米国は中国を攻撃し、仮に先制攻撃されても十分余力を残して反撃できるだろう。純軍事的側面だけを見れば棲み分けができそうにも思えるが、現状において米国が優勢支配する海域を中国が現状変更すれば波風が立ちそうなものだ。2の相互抑止が成立していれば、1の対話がきちんと機能するという前提で、互いの利害調整が進み棲み分けに落ち着くだろう。ところが現状、中国の対米抑止力が不十分ということになると、中国は「米国は足元を見てくる」「最悪攻撃してくるかも」「やられる前に、やる!」という思考回路になってもおかしくない。そうすると戦争になってしまう。(優勢にある米国には、経済制裁から海上封鎖、部分的武力行使まで多様なオプションがある。)逆説的に響くが、非脆弱な中国の核戦力(地下の万里の長城、など)が有効に機能する方が、戦略的には安定するということになるのではないか。

 もちろん、「安定ー不安定のパラドクス」を無視するわけではない。高次元での相互核抑止が成立しても、低次元での低強度紛争まで抑止されるわけではなく、近年のハイブリッド戦法やサイバー、宇宙空間、あるいは貿易戦争という部分の紛争がエスカレートする危険は常にある。これについては、1の対話が肝要であることは論を俟たないが、もう少しマクロな構造としては、やはりこういった低ー中次元紛争においても相互抑止を機能させるべきなのだろう。すなわちエスカレーションラダーの各階層においてそれぞれ均衡した武器を揃えておくということが肝要だろう。例えばサイバー攻撃に対してはサイバー反撃力を、A2/D2に対してはそれにテーラーメードされた各種武力の整備といった具合に。

 このように2の軍事力整備というのはやはり平和の必要条件と思われるのだが、それだけでも足りないだろう。軍事力というのは技術力(ヒト)、兵器製造・展開・運用能力(モノ)、経済力(カネ)などの複合物であって、それら戦略資源の安定供給が不安視されるようであれば、それ自体が安全保障の脅威=国家の究極最強の行動原理、ということになるであろう。事実、昭和陸軍の思想的コンセプトには「原料の自給自足」があったし、ナチスの「生存圏」も似たようなコンセプトだった。17世紀英蘭戦争や20世紀第一次世界大戦も、大国同士が自らの国家基盤=軍事力の源たる戦略資源アクセスを巡って争ったものといえるのではないか。英蘭戦争であれば、軍事力維持を可能ならしめる富の源たる胡椒取引の商権=制海権をめぐる争いであるし、第一世界大戦も同様に経済的富の源たる植民地、そしてより直接的に軍事力を形成する各種天然資源アクセス遮断の恐怖が、国家衰亡の恐れとして国家エリート、そして庶民の精神まで浸透し交戦意欲を高めたのではないか。太平洋戦争時、「石油の一滴は血の一滴」であって、南洋の資源アクセスを求めて南部仏印に進駐するやいなや、英米の戦略資源基地たる東南アジアへの侵略として米国は「一線を超えた」と認識したと聞いている。

 3の戦略資源がゼロサム的に分布する限り、大国間紛争は不可避ということになろう。16世紀スペインポルトガルが戦争しなかったのは、アメリカ大陸とアジアといった具合に戦略資源基盤を棲み分けたからではなかったか。同様に米ソ冷戦が熱戦に至らなかったのも、1の対話・外交と2の相互核抑止はもちろんのこと、3つ目の条件として違いが石油をはじめとする戦略資源をそれぞれの勢力圏で自給できていたことが大きいのではないか。21世紀前半の最大級の地政学的ドラマは米中関係の進展であるが、蓋し3つ目の条件、とりわけ石油供給の地理的偏在性こそが、最大のボトルネックになると思われる。米中両国が中東地域の石油供給に頼れば、その地域の支配権をめぐるゼロサムゲームになるだろう。石油減耗が進展し供給不足が生じれば、中東の支配は米中双方にとって「死活的利益」となりかねない。そこでは冷静な交渉では解決しようのない隔たりがあり、軍事的抑止が成立していようとも、背水の陣に追い詰められた弱者は「窮鼠猫を嚙む」賭けに出る誘引が生じるし、それを察知する強者側には先制攻撃の誘引さえ生まれる。逆に、米国が北米大陸のシェール(近年失速が目立つが)資源と大西洋の海洋油田(ブラジル、ガイアナ、メキシコ、アフリカはまだ伸び代がある!)で自給して中東依存から脱すれば、米中間は高度な相互抑止と冷静な外交関係によってその対立を乗り越え、平和的(敵対的?)共存を達する可能性があると思われる。

 何れにせよ、戦略資源のゼロサム性を低減していくこと(=それは人間の創意工夫、Engineeringによって達成できる)、必要なものを皆が入手できるようにすることは、平和達成に貢献すると信じる。

石油の平和

「明日はもっと豊かになる」という感覚が共有されている時、平和になるのだと思う。現状に満足しているのだからわざわざ好戦的な態度をとる動機がないし、仮にそう言った闘争に陥った場合に失うもの(明日の繁栄)が大きいからである。動機もなければコストも高い、この構造が平和を作る。一方、その誰かの繁栄が自らの繁栄を食い潰すという恐怖があれば、その恐れが闘争の動機を生んで、現に破滅的な戦争になることがある。第一次世界大戦前夜、成長するドイツにパイを奪われることを恐れたイギリスの好戦性を高めていたことがその例である。いずれかの共同体の経済成長率が鈍化する時、すなわち成長曲線の微分がマイナスになると、文字通り軍靴の足音が響き始めるのである。

 いわゆる安全保障政策というのは、こうした好戦性や敵意が一定程度生じていることを前提に、戦争を回避するための方策を考えるものであろう。そこでは闘争の動機の除去よりもコストの増大に関心が払われる。軍事力という一見邪悪な存在を肯定する根拠は、その抑止力、すなわち闘争コストを高めることで闘争を避けるというロジックに収斂する。

 経済政策(通商を含む)は、豊かさを保証することで闘争動機を除去するという意味で、実は平和政策の礎である。そこには単に繁栄・平和という要素に止まらず、公平・公正という要素が加わるので、その分複雑な動きを見せる。経済格差自体が公正に反するという意味で悪であれば、その是正は善である。しかしそうした福祉政策が政府の非効率と相まって経済成長を阻害すれば、その帰結は冒頭に述べた「軍靴の足音」かもしれない。あるいは、筋悪な社会主義政策の帰結としての「国家破綻」かもしれない。いずれも暴力の跋扈という結末は変わらない。国家リーダーは、こうした内政と外交のバランスを取りながら、自らが依って立つ政治的理念に従って決定を下さねばならない。

 そうした意思決定の根源的制約条件となるのが、FEWS(Food, Energy, Water, Shelter)供給である。FEWSは人間生存の必須要素であるので、これらに欠乏が生じれば経済的繁栄は不可能となり、結果安保政策のオプションも極端に減少するだろう。(例えば原油価格が200ドルになればグローバル経済は崩壊するだろうし、水が決定的に不足すれば戦争は不可避だろう。)FEWS供給の歴史はテクノロジーの歴史であり、イノベーションの歴史でもある。火の発明、鉄器の発明、農耕の発明、帆船の発明、化石燃料の発明、等々。そのいずれも、一夜にしてできるようなものではなく、長い時間をかけて人類の集団学習が繋がった帰結としてある。そこでは国家の支援も重要な役割を果たしただろうが、それが全てではないどころか、むしろそれぞれの分野に執拗にこだわった、Entrepreneur達の執念こそが中心的な役割を果たしたように思う。

 ところでアイデンティティとは、結局信念ということだと思う。常識や雰囲気に流されずに正しいことをやるという信念、その姿勢の総体がアイデンティティだ。世の繁栄と平和に資する行動をするという信念で生きるならば、例えば国民全体が隣国に排外主義的になってもあくまで非戦主義を貫くとか、再配分を求める声が高まる中であくまで古典的自由主義経済政策を主張するとか、あるいはCO2削減を求めて化石燃料に逆風が吹く中でも石油生産に精を出すといったことである。それぞれの選択は当然別の価値を毀損しているが、信念というのは敢えてそういう対立を直視することである。

 FEWSの中でも特にEnergyこそが繁栄と平和の礎であると思う。EROIが減少していくことが究極的な問題であり、マクロトレンドを逆転させることはできずとも多少なりその速度を落とすことは可能だと思う。この問題を前にすれば気候変動は二次的でしかないのではないか。どちらにせよ気候は変動するのであり、台風は威力と頻度を増すし、沿海部は水没の危機にさらされ食糧生産パターンも変わってしまうだろう。それに適応するためのエネルギーこそむしろ必要である。「石油の平和」は多くの価値と相反する挑戦的な物言いであるが、それゆえにアイデンティティとなる信念を形成する。

EROIと戦争

 戦争はなぜ起きるのか。戦争そのものの合理性と、政策決定の合理性という二つに分けて考えるとわかりやすいとふと思った。前者は政治的決断として戦争をするのが正しいかどうか、後者は政治的に正しいと思われた事柄を実際に実行に移せるか、という視点である。

 戦争は政治の延長とはよくいったもので、昔は(ハーグ不戦条約より前は)ごく当たり前のように傭兵なんかを使って戦争していたのだと思う。WWⅠで総力戦概念が登場して戦争は原則禁止、やめましょうということになった。倫理的に戦争がよくないというのは異論なしなのだが、とはいえ追い詰められたら戦争はするのだと思う。で、どういう状況になると戦争するのが政治的に正しいということになるのか。まずは「政治的に」という部分を突っ込む必要がある。これは簡単にいえば、支配者が支配を継続できること、と言えるのではないだろうか。「国益」の定義は難しいが斜に構えて冷徹に捉えれば要は支配者が支配的地位を維持できることを指すのだろう。デモクラシーであろうとなかろうと、被治者の利益を無視した統治は持続しないので多かれ少なかれ国民全員のことを考えざるを得ないので、結局漠然とイメージされがちな「国益」とその内実は大して変わらない。つまり支配者が支配的地位に留まるという大目標に適うか否かという基準に立って、戦争という手段・状況が望ましいか否か、ということを言っていることになる。

 ここでおなじみのEROIを持ち出して分析してみる。高 EROI環境と低EROI環境によって状況が変わる。前者であれば経済余剰が多いので自然と交易が盛んになる。現代がこれに該当していて、要は国境を超えたグローバルサプライチェーンが形成されるので、まず経済的にいえば戦争は割に合わない。支配者にとって経済が悪化することは自分自身の富や権力の減少を意味するのみならず被治者の不満を高めることになり支配的地位の命取りになるからである。また、支配者は権益を守るべく必ず武装するという前提を置けば、経済余剰が多ければ武力の量・質も高くなるのであり、自ずと高度な抑止状況が成立する。その究極形態は核抑止である。核戦争になれば全てが灰になるので、支配者がそれを望むわけはない。こうして経済的相互依存と核抑止という二本柱が自ずと成立するのであり、高EROIは構造的に平和を創出することになる。

 またこの時、被治者は経済成長に首ったけなのであって、それをリードするエリートに対する心理的共感を持つのではないか。高度成長期日本の官僚や政治家がそれなりに愛されていたように。政治家は大胆に、官僚はのびのびと天下国家を語る、そんな理想郷がそこにはある。もちろんこうであるから、エリートが非合理的だと考えるような戦争が起こる蓋然性は極めて低い。

 ではEROIが下がるとどうだろうか。経済余剰の減少はまずは経済的下層の極限的な困窮という形で現れる。それは経済的保護主義の台頭を惹起しグローバルサプライチェーンは徐々に切り崩される。それは全体の富を減少させることで結局下層の生活はさらにひどくなり、ネガティブスパイラルに突入する。経済規模がもともと小さい地域ではこうした変動に耐えられず民衆のデモに始まって時を置かずして暴力的抵抗に移行する。保護主義の台頭は米国でも見られたし、中小国のメルトダウンは特に中東北アフリカで顕著である。この時、戦争の政治的合理性はどう変化するだろうか。経済相互依存関係は徐々に希薄になり、国の貧困化に伴い高価な軍事システムの維持も難しくなるから軍事的抑止にも翳りが生じる。すなわち戦争をするコスト・代償というのは高EROI環境に比べてどんどん小さくなるだろう。一方で動機はどうか。国民の不満の高まり、連日の反政府デモという圧力環境において支配者は「共通の敵」を設定することに利益を見出すだろう。するとここで論点になるのは「機会」である。つまり共通の敵を見出してうまく国民の団結を生み出せるのか、それができないのか。戦争を防ぐという意味では、団結できない方が良いことになる。この場合内乱によって多くの不幸が生まれるだろうが、国家間戦争は内乱よりはるかに多くの暴力が動員されるので、戦争より内乱がまだマシなのかと思う。功利主義的な意味で。

 蓋し生存圏(水、食料、エネルギー等の供給圏)が競合関係にあれば共通の敵を見出しやすく、棲み分けの関係にあれば見出しにくいのではないか。WWⅡ時のナチスドイツはWWⅠ時の兵糧攻め「カブラの冬」で民衆の不安を煽ったし、旧日本においても大陸・南洋進出の背景には資源途絶による犬死への恐怖があった。この手の恐怖感は支配者・被治者に共通するので、簡単に集団全体を飲み込むことになる。互いに生存圏を確保できていればこうした競合関係を殊更に強調して共通の敵を作り出すことはできず、国家間戦争よりも内乱の蓋然性が増すであろう。

 最後に低EROI環境における政策決定の合理性であるが、ナチスドイツや大日本帝国を見れば明らかなように、集団の狂気は合理的・常識的エリートを放逐するので政策プロセスの合理性は簡単に吹き飛ぶ。そこまで行かずとも、エリートへの反発が世間を覆い、良識的とされるあらゆる施策に疑念が向けられるだろう。短絡的なポピュリストが指導権を奪取して、政策の不確実性が高まる。

 結論は二つある。まず、戦争のような物理的暴力が跋扈することを防ぐことが正しいという観点に立てば、EROIは高くないといけない。現状、イージーオイルの枯渇に加え気候変動対策などで過激な施策がとられつつあるが、ラディカルすぎるとEROIが激減して悲劇を起こすだろう。石油はやはり不可欠であり、この分野のイノベーションこそ重要だと信じる。

 もう一つ、とは言ってもマクロトレンドとしてEROI低下は避けられないだろうから、これを所与とするならば、少なくとも大国(具体的にはアメリカ・中国)同士が生存圏を巡って競合する状況は避けるべきだ。シェール革命が短命で終わりそうな今、結局アメリカも中東石油に頼るほかないとなれば、中国との全面競合になる。アメリカ大陸全体で見れば、特に中南米において石油増産の可能性はおおいにあるので、例えばアメリカ大陸全体でのエネルギー自給くらいを目指すべきではないか。米中の経済デカップリングが進み、核抑止もいい加減になったとしても、生存圏の棲み分けができれば破滅的な泥沼戦争に突入することはないだろう。それが低EROI時代の最善シナリオにも思える。

 

左脳と右脳の自省録

 名誉、承認欲求、善の意識、貢献意欲等々を司る左脳的領域と、好奇心、趣味、愛や美意識を司る右脳的領域。一言に内面といっても大まかにこの二つがあって、しかも時に鋭く対立するので丁寧に紐解いていかないと自省は完成しない。

 「善く生きるとは」シリーズで垂れ流してきた自意識過剰気味な文章はもちろん左脳に属している。根詰めて訳が分からくなっていたが、今となってはクリアな理解に到達してた。

 事の出発点。Ground Zeroには「善」の探索がある。それも公共の善に貢献するには何をすべきか、という問いである。様々な語り方がありうる中で、たどり着いたのは「恐怖と強欲への対処」である。これがLevel1。

 トゥキディデスは「恐怖」「利益」「名誉」が戦争の原因だと言ったとかなんとか言われているし、高坂は国際政治の分析フレームとして力・富・価値の体系を提示した。3つのバランスがいいのはわかるが、利益も名誉も、最低限必要な「ライフライン」や「自尊心」を超過するものは結局「強欲」で片付けられると思うので、恐怖・強欲という二輪がわかりやすいと思う。

 資源不足でパニックになるのは恐怖が混乱原因になる例であり、隣国の急激な軍拡(その理由もまた恐怖か強欲であろう)に触発されてミリタリズムが台頭するのもまた別の例である。新興国ナショナリズムが爆発して挑戦主義に走り緊張を招くのは強欲の例。自らの共同体が掲げる理念を普遍ならしめるべく暴力的介入を繰り返すのも、ある種の強欲であろう。さらには、強欲と恐怖が一体となって集団を席巻するとき、そこには「狂気」が生まれる。耳を疑うような人類史上の悲劇の背後には、必ずこの狂気があるのではないかというのが今の仮説である。何れにせよLevel1にて「恐怖と強欲への対処」を掲げるならば、次の問いは「いかにして」である。

 蓋し対処法は3つに大別される。「鎮魂」「統制」「救済」である。鎮魂とはもっぱら精神活動に焦点を当てるものであり、例えば宗教や思想が当たる。政治経済社会の崩壊期において全く新しい思想的パラダイムが切り開かれることが、鎮魂に当たるといえよう。統制とはマキャベリ的権謀術数によって恐怖や強欲をコントロールすることを指す。集団心理を政府のプロパガンダ・情報統制によって管理するであるとか、拡張主義を取る隣国に外交・軍事的圧力を加えて抑止するといった施策が含まれる。救済とは努力と創意工夫によって困窮を克服する営為を指す。飢饉は品種改良で、水害はダム建設で、エネルギー不足は新規油田開発で、と言った具合に「不自由」や「欠乏」を(広義の)技術で克服する姿勢であり、産業革命以降のファウスト的精神とも言えるかもしれない。

 Level1で定義された善をなす方法はざっと見るだけでも大きく3つのカテゴリーがあり、その中でも非常に細かく細分化される。その中でどのルートを採用するかにこそ個性が出る訳であり、後述する「右脳」領域も関与してくることになる。あとは偶然や成り行きといったいい加減な要素によっても左右される。自分は右脳領域のモチーフである「自然」「工芸・技術」に、メタルギアソリッド4にはまったことで興味を持っていた「中東紛争」などの要素が加わることで、「石油」「中東」「エネルギー安保」といったキーワードが浮かび上がった。ここにおいて、Level2のスローガン「石油の脱中東依存によるグローバル・オイル・セキュリティ」が定まった。(ここは、「インド太平洋戦略による中国抑止とアジア平和」でも、「LGBT権利向上によるInclusiveな社会の実現」でも、はたまた「原子力復活によるエネルギーと温暖化問題のジレンマ解消」でも何でも良い。Level1からcascade downできてさえいれば。)

 で、Level2を実現するさらに細かい施策として、具体的に自分がどんな仕事をするのかという問いがある。石油の脱中東といってもシェールオイルもあればガスリキッドもあり、ロシアもあるよねと。色々あるのだが、最もhigh potentialだと思うのが深海であり、かつこれまた右脳的趣味に合致するので、「海洋開発」というのをLevel3に据えた。実際今は海洋開発をする会社にいるので、あとは上手いことやって名を挙げて広く業界に貢献するのみである。この部分でどうバリューを出すかというのは、以前「スキルの三階層」で書いた通りで、リーダーシップ、戦略思考、現場スキルという部分をしっかり身につけていくことかと。

 よって、Ground Zeroたる「公共善」に向けてLevel1: 恐怖と強欲への対処、Level2: グローバル・オイル・セキュリティ、Level3: 海洋開発という構造が明確化された。これが左脳領域におけるヒエラルキカル・モニュメントである。

 一方右脳はどうか。モチーフは「自然」「工芸・技術」である。このモチーフを何らか一点突破的な趣味で表現するのか、はたまたライフスタイルそれ自体に浸潤されるのか。従来は前者の考えでいたがどうも行き詰まる。一つの趣味(例えばロードバイク)を「極める」ところまでいかないのだ。それよりも、モチーフに沿って広く浅く嗜む。そこにこそ世界観の完成の道筋が開かれているのでは。左脳がヒエラルキカルで明示的だったのに対して、こちらはフラットで曖昧。それで良いのかもしれない。右脳領域の探索はまだ始まったばかりである。

 

鎮魂と統制と救済

 クリストファー・ボーム『モラルの起源』(白揚社、2015年)が非常に面白くて感ずるところ大なりだったので書くことにした。

 現代の人間の道徳観は石器時代にチームで大型動物を狩るようになってから形成されたという仮説。共同体に危害を及ぼすエゴイスティックな行動を評判で抑制していて、それを抑制できない真性エゴイストは遺伝子的に駆逐される一方、利他精神を内面化(すなわち罰を恐れてではなくそれが正しいと思う、それをすると誇らしいからという理由で規範に従う)した人が選別されてきて、道徳が定着するに至ったという内容。もう一つ興味深かったのは人にはエゴ、身内びいき、利他という三種類の心理が備わっていて、食料などの資源が豊富な時は利他が効果的に機能するが、欠乏すると利他に制限をかけるだけの柔軟性もある、ということ。極限の飢餓状態では親が子を喰らうという衝撃的行動さえも人は取り得て、かつ、それを(心理的苦痛は味わいつつも)道徳的逸脱とは必ずしも捉えない。生きるためには徹底的にエゴイスティックにならねばならぬ時もあるわけだ。事実こうして我々の祖先は欠乏が恒常化する厳しい時代を生き抜いてきた。

 この内容を兼ねてより書き殴ってきた「鎮魂と救済」の文脈に当てはめるとどうなるか。まず人間の捉え方だが、エゴ、身内びいき、利他があるのは皆共通だがその範囲や生態的状況に応じた挙動は千差万別である。どんなに豊かで満たされた環境でも人を殺したりしないと気が済まないサイコパスがいると思えば、飢餓寸前でも他者にパンを分ける極端な利他主義者もいる。とはいえ、ほとんどの人間が当てはまるであろうところの「標準的」なあり方というのはきっとあって、それをモラルマジョリティと呼ぶことができる。

 また、利他が制約される状況をつぶさに見ると、そこの根元には欠乏への恐怖があるように思える。平時は仲間に公平に肉を分けていた原始人が、緊急時にカニバリズムに走ったという事実が示唆するのは、飢餓のような欠乏が利他を制限するというある意味直感的に当たり前の事柄であるが、一歩進んで、「飢餓の恐怖」もまた利他を制約しうるだろう。以下の例を考えてみる。

 私は30人の部族で暮らす狩人である。従来は縄張り内で比較的豊かな暮らしをできていたものの、最近縄張りに別の部族が侵入するようになった。狩場には幸い動植物が豊かに存在し、直近で物資の欠乏になるとは思えないが、侵入者の意図や実態次第でもある。たまたま間違って侵入したのか、あるいは増えすぎた家族を養うべく侵略的意図を持って偵察しているのか、後者であれば私の仲間の平穏が危機にさらされていることになる。

 翌日、狩場に行くと10人程度の狩人が我が物顔で獲物を仕留めていた。昨日見かけた人も含まれている。こちらのことは気づいているようでもあるが、すくなくとも敵意はない。直ちに戦闘するのは得策ではないが、相手方の人口規模はこちらと同等程度ではあろうし、両部族を養うほどの獲物は当然いない。何らかの対策が必要だ・・・

 初日の時点で狩人は恐怖を覚えた。それは具体的な欠乏の恐怖というよりも、相手の狙いがわからない、何が起きているかよくわからないという茫漠とした不安であった。<A>

 しかし翌日、相手を再び目撃することで、縄張りにおいて競合していることを明白に理解した。短気な人であれば怒りを覚えて闘争心を駆り立てられるだろう。具体性を帯びた欠乏への恐怖が、是に於て最初に生まれることになる。<B>

 こうして集団に恐怖が生まれると、敵意や嫉妬といったネガティブな感情が連鎖的に発生する。いずれも利他を制限する毒である。モラルマジョリティがこの毒に感染し暗転する時、集団は闘争的になる。なお「集団」は共同体内の小勢力かもしれないし、敵対共同体に対峙するある共同体そのものかもしれないし、強大な勢力の前に連衡する共同体群かもしれない。大きさはともかく、一定の「他者」を敵と認定する、友敵作用が生じるということである。<C>

 社会が分断され価値闘争の様相をすれば、遅かれ早かれ破綻が待っている。革命・内戦・戦争が生じ、秩序は乱れ生活は破壊される。例えば時間をかけて作った菜園は無残に蹂躙され、住居は破壊される。漁に使う道具も船も壊され、まさに欠乏が襲いかかる。<D>

 

 このように、多くの人間が隣接して集住し、限りある資源を共有する世界においては、A-Dの流れがしばしば起こることになる。とはいえ、それぞれのステップにおいて人間にできることもある。

 A: 鎮魂-1。状況を冷静に分析把握する。確かに見知らぬ人がいたが敵とは限らない。迷っただけかもしれない。仮に狩場を奪おうとしているのだとしても、対話の余地がないではない。焦るな、恐るな、ゆっくり確かめよう。

 B: 鎮魂-2。相手が敵である可能性が高いことはわかった。しかし闘争すれば互いに失うものの方が大きい。現状において食料が不足しているわけではないし譲歩の余地もある。せっかく落ち着いてきた良い居住地だったが、最悪移転もできなくはない。なーに、相手だって同じ人間、仲間のために狩場を探しているんだ。俺たちがそうするように。「敵」だなんて大げさじゃないか。

 C: 統制。すっかり闘争状態が定着した。仲間を守るのが善であり、敵を倒すのも善、全く同様のことが敵側にも成り立つ。善悪の世界を超えた灰色の世界。マキャベリズムの権謀術数を駆使して敵を制圧し、統制する。

 D: 救済。世の中は戦闘で荒廃した。農地は荒れ果て家は壊された。多くのものが死んだ。しかしこれが世界が終わるわけではない。まだ生きている人もいる。家を再建し、土を耕し船を編もう。生きるために汗を流そう。

 現代はどのステップにいるだろうか。資源減耗が進み経済の縮小が視野に入ってきた中で、利他を制約する毒が回りつつあるようにも見える。社会的合意はままならず、一方で統制志向の政治が目につくようになっている。暴力的闘争や崩壊を避けるための統制は、目的こそ崇高なれど他者の抑圧を前提し、価値闘争の激化を招かずにいない。一時的な統制も、原因たる価値対立を強化するのでは、構造的袋小路と言わざるを得まい。

 蓋し救済こそが未来につながる道である。

 

救済と鎮魂

 プラトンアリストテレスエピクロスエピクテトスマルクスアウレリウスあたりの系譜を齧って「アタラクシア」すなわち不動心こそ幸福であり善であると考えてきたが、その中で、利他すなわち他者の幸福にどう貢献するかというのが大きなテーマになっている。利他は所詮虚栄でありどうでもいいではないか、という気もしなくもないのだが、日常の中でその気分が長続きすることはあまりない。「友好的感情」が善であり、「敵対的感情」が悪、といっては雑だろうか。でもこれは、かなり直感に合致する。

  戦争と平和というテーマを少し掘り下げる。争いのわかりやすいパターンは、希少資源を巡るものである。FEWS(希少のfewにかけて):Food, Energy, Water, Shelterが人間生存の4要素であり、「健康」の基盤とも言える。これが欠乏すれば純粋な生物学的闘争が生じることになる。しかしこれらが十分に満たされていても、人は争うのである。それは恐怖や虚栄心、怒り、嫉妬といった「赤黒い感情」によるものである。隣国の経済的軍事的成長に嫉妬と恐怖を覚えれば、対抗して自国の軍事力を増やそうとする。それが相手を刺激して軍拡になる。臨界点を超えると戦争になる。古代より戦争発生パターンとして知られる「トゥキュディデスの罠」だ。「善」が「友好的感情」であるならば、ここでいう「赤黒い感情」は明らかに悪である。論理的帰結として悪に行き着くものはやはり悪であるならば、例えば脅迫は悪である。銃口を突きつけられば恐怖が湧くし、その理不尽さに怒りも沸くのが普通だからだ。であるならば、「抑止力」もまた悪になる。それはニュートラルな言葉だが本質は脅迫だからだ。

 ここで「鎮魂」という概念が出てくる。鎮魂とはすなわち、敵対的感情を解毒して友好的感情に変換する説得作用を指す。隣国の成長を嫉妬と恐怖の目で眺める同胞に対しては、その懸念を払拭せねばならない。過大な野心と傲慢さで拡張する隣国の民には、節制を説かねばならない。これは明らかに理想的・空想的であるが、少なくとも「善」の論理が指し示す結論はこうなる。相手が怖いのは仕方ないから武装して抑止する、というのは、論理的には悪ということになる。

 ところで鎮魂というのは、敵対する相手側に対して言葉のみでできるものではない。敵から「まあ落ち着け」と言われて落ち着くバカはいないのである。ゆえにそれは専ら同胞に向けられるものになろう。相手の鎮魂は、こちらの譲歩という覚悟を示すことでのみ実現する。

 ところでFEWSが欠乏すれば、生物的宿命によって、やはり赤黒い感情が生じる。これを抑えることは「鎮魂」というより「救済」といった方が良さそうだ。飢えた人に食事を与える、家なき子に屋根を与える、凍える民に暖を取らせる。人間の生理的欲求を満たすことは、敵対的感情すなわち悪を除去するという意味で善である。(飢えた人も肥えた人も等しく怒りや嫉妬を覚えるだろうが、その度合いや頻度は大きく違うと思われる。衣食足りて礼節を知るという言葉もある。)

 そうであるならば、「鎮魂」と「救済」が、他者との関係において可能な「善」ということになる。顔の見えないアノニムな他者に対しては「鎮魂」のハードルは高い。私はむしろ、「救済」に尽力したいと思う。なお家族や友人、同僚といった「最小共同体」においては、この双方が実現可能であり、そのために努力するのが善い生き方ということになる。

  最後に思考実験として暴力的な武装集団に襲われるケースを想像しよう。そこで「鎮魂」の余地があるのだろうか。譲歩すればそれすなわち自らの生命財産、あるいは愛する家族や友人のそれを差し出すことになるのではないか。非暴力・不服従がありうるのか。蓋し「闘争」は悪であっても、「逃亡」は悪ではない。逃げるは恥だが役に立つとはよく言ったものである。逃亡先に新天地を見つけ、そこにおいてFEWSを満たす限りにおいて善は維持される。絶望的苦難にあっても希望のエクソダスはありうるのであり、その逃避行や新天地捜索の努力は尊いものであろう。人はその創意工夫と情熱によって、砂漠の中にも、海原の上にさえ生きることができる。FEWSの限界を乗り越えて幸福を掴むことができる。鎮魂の希望が絶たれた中でさえ善の光は消えない。

 FEWS, everywhere.これは善のスローガンである。

 

 

 

善く生きるとは 9

 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を齧ったので、そこら辺を踏まえてまた考えた。

 快楽はある一定水準までは自然的であり善いが、それを越してくると依存傾向が出て悪になる。だから魂の陶冶によって欲望を統制し、自然的水準で満足できるようにすべきである。この時精神は安定を獲得し、淡い幸福に包まれるのである。では自然的欲求が満たされない状況は悪なのか、というと、悪ではない。しかし、その苦痛から逃れようとすることは、それが自然的範囲に留まる限りで、やはり悪ではない。むしろ善と言えるのだろう。私としては、ストア派エピクロス派も正直変わらないと思っている。自然的快楽にどこまで積極的意味合いを持たせるか、という差異に過ぎず、非自然的・過剰・依存的快楽を敵視している点では共通しているからだ。

 蓋し善には他者との関係のあり方も含まれるだろう。他人を幸福にするのは善であり、不幸にするのは悪だと、直感は主張する。では他人を幸福にするとはいかなることか。これは第二段落で述べたことがそのまま妥当する。すなわち、魂の陶冶を助け、その上で、つまり欲望を制御させた状態で、自然的快楽を満たしてやることである。この順序は極めて重要だと思う。精神修養無くして快楽を与えるのは、制御されない爆発連鎖を誘引することであり、崩壊へと至る壮大なドミノの最初のピースを倒すことに等しい。欲望制御という安全装置がある限りにおいて、快楽は善いのである。ではこの「精神修養の補助」とは何か。布教活動か。そうかもしれない。私の哲学は宗教と言えるほどの内容ではないが、ある他者に対しこういう考え方を受け入れてもらって、アタラクシアを目指しましょう、それが幸福ですよね、と説いて、はい心からそう思います、とならないといけない。これはどうしたらできるのか。

 昔の宣教師のように旅して回って説教するか。現代の作家やYoutuberのように、自分の意見を文章や動画にして配信するか。いずれも悪くなさそうだが、しかし、真の意味で相手の精神に作用するには、生活を共にするほかないような気がする。一挙手一投足、発言の節々、自分の生き様それ自体がアタラクシアを体現する限りにおいて、その芳しさが他者に伝播するのであって、リーチ数は問題ではないと思う。そして生き様を示せる他者というのは、すなわち身近な人々、隣人以外にはない。いやむしろ、「数」というアノニムな概念に執着することは、アタラクシアを伝道せんとする自分自身をして名誉という欲望の奴隷たらしめることに他ならず、そんな名誉欲の支配下にある「不動心」を誰が信じるだろうか。深さよりも広さを志向する時点で、目的から遠ざかるのである。

 そうして魂の統御を実現した他者に対し、自然的快楽を提供するのは善である。仲間にパンを分けたり、看病をしたり、共に歌ったり。などなど。とはいえこの善は、魂の救済の善を主とするならばむしろ従、前者をカツ丼とするならば後者はお新香である。逆に、魂へのエンゲージができない「赤の他人」に対して、「自然的範囲内であれば善であるから」ということで快楽を提供せんとするのは、厳密には善でないどころか、先述の通り、欲求の無限階段、メフィストの罠へと貶める行為でありむしろ悪とすら言えよう。また、その「赤の他人」に苦痛を与えることは、無論悪であることに違和感はない。

 まとめると、「善く生きる」とはまず第一に自分の精神を統御してアタラクシアを実現することである。第二に、その生き様によって隣人の魂をも救済することである。この時、広さよりも深さを優先し、かつアノニムな他者への無責任な関与は最小化することである。最後に、これは必須ではないが、自然的範囲の快楽を堪能することである。つまり善く生きるとは、徹底的に身近な生活空間と向き合うことと言えよう。