善く生きるとは 8

 「善く生きること」を「幸福」と定義するとして、「善く生きるとは」何かをずっと考えている訳だけど、究極的には言葉の定義問題に帰着するのでは、という感じがしてきた。

 「善」の中身が全く不明な状態であることを明示するべく、「善」をあえてXと呼ぶことにする。Xの中身はわからないが、Xが備える性質・条件はいくつか言えることがある。すなわち、

 「Xの実現において、全人類は平等である」

 「Xの実現において、各人は自由である」

ということかと。これを真とするならば、対偶を取って、

 「全人類に平等に開かれていないものは、Xではない」

 「その実現において不自由を被る人がいるものは、Xではない」

もまた真であろう。

 

 「善」の中身を検討するにあたっては、これが手掛かりになりそうである。現代の公共哲学は、原則的に物理的快楽の実現を善と捉えているように思える。功利主義リベラリズム共同体主義と言った哲学教義の対立は富の配分をめぐる議論であって、富(究極的にはエネルギー余剰)自体に価値があることは同意しているようだ。こうした議論は上の命題によるテストに堪えうるだろうか。

 富あるいは物理的資源は有限であり、かつ偏在する。肥沃な大地・降り注ぐ日光・水源・油田、これらは地理的制約ゆえに平等には分布しない。それを人工的に均等配分する場合は追加エネルギーが必要であり、その配分者への富の集約なくしては実現できない。社会主義国家の中央政府が過度な権限集中と腐敗に満ちていたことがその証左であり、結局、富を人工的な中央に再配置したに過ぎない。つまり、物理的資源は全人類に平等に開かれてもおらず、かつ、その獲得においては不自由を被る人間が必ず出る。これが歴史の真実であろう。

 であれば、物理的資源配分は「善」の条件を満たさない。よって、「善」は物理的資源配分とは一切関係がないと言えるのではないか。貧困に生まれたり戦場に生まれるだけで「不幸」であり、豊かな人間は「幸福」であり、不幸な人間は恵みを乞う立場とされるのは、前者の尊厳が踏みにじられている。憐憫を垂れてもらって資源を分けてもらうというのは、幸福なあり方ではあるまい。では次の問いは、何が善の条件を満たすのか、である。

 答えは、ありきたりだが、各人の精神の中にあるということだろう。ストア哲学が主張するように、精神はいかなる暴力や困窮さえも侵すことのできない、各人の絶対的自由領域であり、かつ、人間としての思考機能を持つ限り、誰もが等しく持つものである。この点、大富豪もスラムの孤児も、善の実現という人間の究極的目標においては全く同等の地平に立っているのである。そして私が考えるに、これは人類の平等という点で望ましい。(これは善を物理的資源配分と紐づける立場からは出てこない前提であろう)

 物理的資源配分(この場合、「他人」を含むあらゆる外部環境)は確かに人の愉悦・苦悶(痛みや不快感)に作用するであろうが、それは「善」とは別の何かである。とはいえ、これで善が明確に定義できた訳ではない。各人の精神がいかなる状態であるとき、善いのかはまだわからない。神の教えに従い思考している状態なのか、ストア哲学に習いアタラクシア(不動心)を達成した状態なのか。しかしこれは各人の自由なのかもしれない。私は今のところ、不安や恐怖、悩みに満ちた状態ではなく、常に落ち着き、満ち足りていて、淡い幸福感を感じている精神状態を幸福と定義している。

 ところで各人の「善」が、各々が追求するところのその人の精神的状態であるとする場合、他者との関係はどう整理されるだろうか。いわゆる優しさや利他主義の中身は何になるのか。

 優しさが他者の幸福を願うことであるならば、それは他者の善の実現を願うことであるが、善の実現は徹底的に個人の精神的作業であるから、物理的資源配分を通して優しさの実現は不可能ということになる。さらに、仮に幸福を欲求充足と定義した場合でさえ、物理的資源配分によって充足されるのは肉体欲求のみであって、マズローに従えば、それが満足されるや否や精神的欲求が生まれることは周知であり、理性による抑制を発動しない限り人は永遠の欲求不満に苦しむ訳であるから、他者に富を分け与えることはマクロに見ればその人の幸福には繋がっていないのだと思う。いわば喉の渇きに苦しむ人に冷えたビールを与えるようなものだ。瞬間的に渇きは癒えるが、アルコールにより中長期では脱水されてしまう。

 一方、宣教師のように、精神的営為のガイドを示すことは、優しさの実現につながるかもしれない。ここで生じる最後の問いは、優しさは善に含まれるか、ということである。言い換えれば、理性の制御によって一切の利他心を捨て、周囲の状況と自分の精神状態(例えば虐殺のような悲劇)を完全に切り離し極限の不動心を実現したその人は、果たして善い人なのか、という問いである。

 直感的には、その人は冷徹な鬼であって、善くない。しかし、見ず知らずの土地で他人が苦しんでいることが明らかな現代において、そういう人の悲劇に心を痛めないからといって善くないと言われる筋合いもなさそうだ(これは後で少し検討)。また、共感感覚は個人差があり、一切の他者に共感を抱けない精神構造の人間は、それが生まれつきであっても善くないことになり、それは善の平等・自由原則に反する。つまり他者をどう思うか、どう関わるかは善とは関係ないのではないか。

 では他者を加害しても善は損なわれないのか。エピクロスなら、他者の加害は、それが「自分の」精神を掻き乱し不動心を脅かす限りにおいて悪、というかもしれない。つまり各人が持つ他者への共感感覚次第ということだ。いやしかし、各人の精神は理性により制御できるのであれば(肉体的苦痛においても幸福になれるというくらいであるから)、共感感覚もまた、理性によって拡張できるというべきではないか。そしてそれができるのであれば、拡張すべきなのではないか。つまり、本能的にはそう思わずとも、理性によって、アフリカで苦しむ子供を思って心を痛めるのが善いのではないか。

 一つの妥協的整理として、各人の生まれつきの共感感覚を理性によって拡張するよう努力すること、は善さの要素に入るかもしれない。その範囲は個人差があるし、他者の幸福をどれだけ実現できるかは物理的資源アクセスが影響するから、現実的な他者貢献度合いは善さのレベルに影響しない。つまり「敵味方なく、あらゆる他者の幸福を祈る」姿勢こそが善いということだろうか。

 すると善く生きるとは、すなわち自分自身の不動心を維持しつつも(あるいはその基盤があるが故に)、他者の幸福を祈る態度を保つこと、と言えるかもしれない。

 

善く生きるとは 7

 ここ一ヶ月くらい善く生きる事について徹底的に考える中でわかったことがある。善の理論の「正誤」判定は結局のところ「私」の直感に頼るほかない、ということである。トロリー問題じゃないが、どんな理論も、ある特定のシチュエーションにおいてその理論が指示するところの行為・選択が正しいかは、それをイメージして、「うん、そうするよね」と心の底から思えるか、という至極曖昧で利己的な判定しかできない。そして「直感」の中身は十人十色である。これが世の中に多くの「正義」が存在する理由であろう。

 この直感は多分DNAと幼少期の教育によって決まっていて、今更理性で矯正できるものでもないような気がする。では「善く生きる」とは結局のところ「直感」に従って生きるということなのか。それもちと違う気がする、少なくとも「理性」にも何らかの役割があるのではないか。

 状況を整理すると、確実にわかっていることは以下の事柄。

1:私には私の利益がある。(マズローの欲求段階的にいえば、生存、共同体所属、承認、他者貢献)

2:同様に他人にもその人の利益があると想定されるが、それが具体的に何であるかは究極的にはわからない。

3:社会で生きる以上他人と共存するほかなく、往々にして利害が衝突する。そのとき、自分と相手の利害をうま〜くバランスするのが「善」ではないか。

 

 3において利害のバランスを取るとき、必要なのは思いやり・想像力である。自分がこうしたら相手はどう思うだろうか、というのを、様々なシナリオを思い描きながら、理性と直感を総動員して考える、そういう姿勢が善ではないか。その結果、結局自分のエゴを優先して他人を害してしまうかもしれない。それは仕方ないかもしれないしそうでないかもしれなく、答えはないので、永遠に悩めばいいと思う。状況の微妙なニュアンスによって答えは変わるので、一般化して語れるほど単純じゃなさそうだ。

 

 ところで「人の役に立ちたい」というのは一見善く響くが突き詰めればエゴだと思う。誰かを喜ばすのは実際快感であり、良い人だと思われればまた気持ちいい。ほとんどの人間が本能的に持つ共同体感覚として、貢献欲求はあると思う。(まあ、他人はわからんのだけど。少なくとも私はそう感じる)あるいは本当は嫌だけど義務感で「善」をなそうとするとき、その動機は何か。善くありたいのはなぜか。「善くありたい」というのは欲望の表明に他ならない。その先に天国が待っているのかは知らんが、自分の理想像に近づきたいという意味でやはり利己心が根源にある。別に利己心だから悪い訳ではないのだが、そうやって他人・社会に働きかけることで実は誰かを不幸にしてないか、ということを、理性と直感を動員して絶えず検証せねばならない。ただし、結局判定は自分の直感任せなので、真実は絶対にわからないのだけど。

 

 などという綺麗事を言っても結局エゴイストであることからは逃れられない。他人を幸福にするためにあなたは死ね、と命じられても躊躇ってしまう(というか無理)のはその証拠だ。まさにマズローの欲求段階の通りで、肉体が健康で身近な共同体とうまくいっている限りにおいて、「人類への貢献」などという呑気なことを言えるのであって、大怪我をしたり難病になれば今日を生きることで精一杯なのだ。それを誰が責められよう。

 

善く生きるとは 6

 「誰も不幸にしない」を徹底しようとこの一週間過ごしてみたが、発狂しそうである。どう考えても普通に生きているだけで誰かを害しているし、まして石油開発などというビッグ・ビジネスに関与すれば否応無しに誰かの機嫌を損なっているだろう。

 そこで少し戒律に変更を加えてみたい。

 

「誰も害するな。但し自分の核心的利益(Critical Core: CC)を守るために必要であるときは、この限りでない」

 

 まあごく普通の、それこそ古今東西の掟に共通していそうな戒律なのだが。このポイントは「自分の命とか、人によっては信仰とか、とにかく大事なものを守るためなら、人を害しても仕方ないよね」という妥協である。怠惰と言われればそこまでだが、正気を保つために必須であると判断した。

 他者と共存すれば色々な摩擦があり、自分のCCが脅かされる瞬間はある。その時、この戒律に従うならば、人には反撃権(自衛権とでも言おうか。自然法みたいだね)が生じる。興味深い事に、近代国民国家における社会契約論は、この各人が保持する自衛権を政府に移譲して、政府が代理行使する、みたいな建てつけであると気づく。但し政治領域においてはそうでもない。例えば軍事的に優越する隣のA国との外交政策をめぐり、怖いから大人しく服従しようという人と、自国のプライドにかけて断固立ち向かうべきという人もいて、そういう政策がそれぞれのCCに直結するとき、政治的闘争は不可避である。現実的には選挙という方法を通じて多数決で決着がついてしまう。負けた方に救済はない。例えば宥和派(服従派)が買ったとき、強硬派のCCは侵害されているから、それを回復すべく他者を加害する権利が生じるが、それは国家に取り上げられ遂に行使されることもなくドブに捨てられるのである。これは可哀想ではあるが、宥和派も強硬派もそれぞれ正当なCCを巡って闘ったわけであり、その闘い自体は善いかはわからないが少なくとも悪くはない。強いていえば価値中立であろう。(ちなみに、各人のCCは保障されるべきなのにそうなっていないとき、様々な理由で理不尽に抑圧されるとき、法体系という制度の限界を打ち破るべく暴力に訴える=テロリズムが許されるか、というのは興味深い問題かと思う。)

 各人のCCが共通であれば、「誰のCCも犠牲にしない限りで、あらゆる人のCCを保障するよう努めるのが公共善」などと定義できようが、第一に人によりCCは異なり完全に把握するのが非現実的なので、もはや何もできない。仮に同じでも(例えば肉体的健康)、誰のCCも犠牲にせず、という条件はクリアが難しい。有名なトロリー問題も、一人を犠牲にして五人を救う、というのはこの戒律では正当化できない。ちょっと変えて、一人の手首骨折と引き換えに誰かの命を救えるとき、あなたはその人の手首を折るか、という問いも、私は慎重に考えるべきと思う。その人がピアニストで、手こそアイデンティティ、魂の全てという状況だとしたら、そう簡単に手出しはできまい。もし私が手出しするのを正当化するならば、それは死にかけているもう一人が持つ加害権を、私が代理行使するという整理になろうが、この「代理行使」を個人に許可してしまえば、私は世界中の「CCを危機にさらされた人々」が持つ膨大な「加害権」を代理行使することで、圧倒的暴力を放つことが許される事になってしまうが、これは直感に反する。(法的・社会契約論的には、それが許されるのは唯一政府、より厳密には「法体系」である)

 というわけで結局各人にCCがあって、どうしようもなく対立するときはもう相手を害すのは仕方ない、と。漁師がいて魚を捕まえて生きています。ここに魚の権利を主張する人間がいて漁業は魚の権利を侵害するのでやめてください、あなたが漁をする事で私のCCが侵害されます、という人が現れたとしよう。漁師は漁業で生計を立てているのでありその停止はCCに抵触する。是に於て両者は対立する。あとはバトルしてもらうほかない。そのバトルは価値中立である。同様に私は石油開発に従事して生計を立てていますからそれによってCCが侵害されるからやめてくださいと言われたとしたらその主張こそが私のCCを侵害するので闘争に至る。これは仕方ない。怠惰な態度かもしれない。どうだろうか。

善く生きるとは 5

 「誰かを幸せにする」は分かりやすいが、「誰も不幸にしない」を徹底的に考えると行き詰まる。こうして快適な家に住みWifiを利用しながらパソコンを打っている時点で、大量の化石燃料エネルギーを消費しているし、このデバイス製造過程を通じてアフリカの児童労働や中国における有毒化学物質汚染に関与していることになる。「文明人」でいるだけで誰かの犠牲を強いているのである。

 「善く生きる」を追求する上で、3段階考えてみた。初期段階は「文明人」、次が「未開人」、最後が「死者」である。

 文明人でありながら善く生きるにはどうすればよいだろうか。文明がもたらす弊害を少しでも減らすよう努力することだろうか。例えば電子機器のサプライチェーンから児童労働や有毒物質の排出を減らすよう働きかける、あるいは石油生産における安全性を高めるよう努力する、新薬開発における非人道的な実験を根絶する、危険な核兵器を削減する、など。このように文明が撒き散らす毒素を浄化することは可能であり、そのために献身するのが正しいだろうか。しかし外側から「正義の味方」として当事者を声高に、かつ暴力的に非難するような立場にはなりたくない。そこにあるのはモラルハイグランドから相手を殴り倒す残虐性であり、私の追求する善さとはかけ離れている。文明を前提しているのだから、文明自体を批判するのは筋違い(しかもそれは多くの人を不愉快・不幸にするだろう)であって、むしろ文明を支えつつ、ESGのように産業界内部での思想転換、歩み寄りによって文明を解毒する、そういう可能性が探れるのではなかろうか。ちなみに私の考える善さとは「誰も不幸にしない」かつ「誰かを幸福にする」であるが、文明に身を置く場合、文明=相互依存システムなので誰かを幸せにしていることは疑いようがない(でなければ文明社会で賃金を得られない)ので考える必要がない。ひたすらに、犠牲を最小化することを考えるのが善い。

 そうはいっても文明は完全には解毒されない。つまり文明社会に生息する限りにおいて誰かの犠牲の上に立つ事になるのであって自分は悪であり続ける。ドラスティックな解脱を求めれば、脱文明化すなわち「未開人」になるほかない。グローバルサプライチェーンから離脱し、完全自給自足を実現する。ソローが『森の生活』で目指したのがこれだったのかは知らんが、そういうイメージ。その中で属する最小コミュニティに献身することが、「誰も不幸にせず、誰かの幸福に貢献する」という、善き生き方の実践になるのではないか。

 但し、最小共同体といえど他者と関わる限りにおいて、悪が生まれるリスクがある。自分の利益と他者の利益がどうしても相反し説得も合意も不可能であれば、どちらかは不幸になるほかないのであり、善くない。こうして、究極の善さの完成として「死」が出てくる。死ねば誰も犠牲にすることはない。しかし誰も幸せにできないではないか?ところが人間は死してなおその人を愛するものの魂にて生き続ける。それならば、肉体の存続すら必要ではない。善くあらんと生きた証が身近な誰かの脳裏に刻まれその人を鼓舞する限りにおいて、死者すら誰かの幸福を支えているのであり、「死」は善の完成を意味する。

  

パイを増やすのは善いのか

  物質的快楽の究極的源泉は石油に代表される一次エネルギーだと思う。エネルギーの化身として財やサービスが存在し、人々の幸福を構成している。食事も教育も医療も娯楽も安全安心(インフラや軍事力)も全てエネルギーの化身である。

 農耕社会成立以来の歴史のいたずらによりエネルギー余剰へのアクセスは偏在している。つまり世の中は格差であふれている。個人間、都市間、国家間あらゆる所に格差が見て取れる。その格差をどう捉え、資源配分につきどういう理想を定義しまた行動するかは、人間の認知・思想次第であり、その配分プロセスが政治だと思う。エネルギー余剰すなわち人類が享受できる資源量を一定とすると、物理的側面で見れば、資源配分はゼロサムゲームである。消費しきれない食料やガラクタを抱える人間がいる一方で餓死寸前の人間がいる時、それはエネルギー余剰へのアクセス偏在を示している。公権力が富者をして貧者への富移転を強制せしめるとすれば、富者の反感を買うことは明らかであり、こうした政策が無条件に善いとも言えない。(もちろん善いという意見もある)

 ところでエネルギー余剰の総量を増やすことは、「誰も不幸にせず誰かを幸福にする=パレート改善」になるのではないだろうか。もちろんここでの「幸福」は「物理的快楽」に限定されているけれども。パイの総量が増えれば富者は傷つかず貧者は幸福になる。エネルギー余剰の増加方法として二つ考えてみる。一つは資源採掘量の増大、もう一つは資源利用効率の改善である。

 資源採掘量を増やすのは一番手っ取り早いが環境汚染や気候変動、すなわち地球環境負荷という別問題が浮上してくる。これは採掘現場の周辺住民及び将来世代の物理的快楽と相反するため、「人類全体のために資源開発を推進する」と綺麗事を言っても、数においては少数であろうが誰かしらの物理的快楽を犠牲にしていることになる。

 では資源利用効率の向上はどうか。すでに地上に吸い上げられたエネルギーのうち無駄に捨てられているものの割合を下げるということであり、一見、その向上は誰も傷つけないように思える。具体例として、土地という限られた資源の利用効率を向上させた緑の革命を見てみよう。慢性的飢餓を強いられた人々のうち幾らかはこの革命により恩恵を受け最低限の肉体的幸福を確保するに至ったが、弊害もある。往々にして「効率化」は化石燃料依存・化学薬品依存・機械化・画一化・欧米化といった特徴を備えている。いわば副作用の強いステロイド剤である。伝統的農業は破壊され、地下水は枯渇し、殺虫剤で生態系は破壊される。これらは当初の目論見に反して物質的快楽を妨害するのみならず、現地に根付いた伝統的価値観という精神的苦痛ももたらしかねない。

 もう一つ、自動車の燃費向上を考える。燃費が上がれば単位あたり便益に必要なエネルギー量が減るので、エネルギー余剰は増加するはずである。ただし増加したエネルギーが貧者に移転することはない。エネルギーアクセスは貨幣と引き換えであるから、受益者たるユーザーが貧者に貨幣を移転することなくして、「パレート改善」は生じない。燃費向上の帰結は、節約したガソリン代を使って家族でお寿司を食べる(=追加エネルギー消費)、の類である。よってエネルギー利用効率の改善によってパレート改善を実現するという目論見の行き着く先は、「主たるエネルギー消費者たる富者から貧者に富をいかに移転させるか」という、古典的で答えのないアポリアである。別の例を出すなら、最先端のロジスティクスシステムでコストを極限まで削り「社会の流通効率を上げる」ことで利益を得るのはアマゾンであって、飢餓にあえぐアフリカの子供ではない。我々はアマゾンに、アフリカ支援を強制できるだろうか?もちろんそうして富を増加させた欧米企業がアフリカに投資することで、便益がトリクルダウンされるということもあり得る。ただし緑の革命と同様に、そうした「欧米化・機械化・画一化」により失われる価値もある。

 結局、資源供給量の増大や資源利用効率改善というのは近代化・西洋化とほぼ同義であり、物質的には圧倒的便益をもたらした一方で踏みにじってきた価値もある。また増大したエネルギー余剰は結局富者に集中する(格差拡大)。パイを増やす過程で犠牲になるものもあれば、増やしたところで結局配分が問題になる。

 

 

  

 

 

善く生きるとは 4

 自分の幸福と他人の幸福を目指す、要は「みんな幸せに」生きる世界を究極の理想としてそれに向かう線路を歩むような生き方、が善い生き方なのだと思うのだが、先日来掲げている「誰も不幸にしない」について、何故そうなのか、を考えてみた。

 悪人は幸福になる権利を欠くのであって、ボコられても良いとする考えはむしろ一般的だと思う。ここで生じる問題の一つ目は悪とは何かという定義。一つの仮定義として「他人の不幸を容認するないし積極的に志向する態度を悪」とするならば、「悪人はボコられても良い=悪人は不幸で良い」とする「善人」の態度はそれ自体悪であって、善人すなわち悪人というパラドクスに嵌る。「「善人」の不幸を容認するないし積極的に志向する態度を悪」と定義で妥協すれば、循環参照であり無効な定義となる。なかなか難しい。宗教においては教義において悪が定義されていよう。しかしその定義や解釈は時代や地域によって微妙に異なる。これは善の議論は実体のない抽象概念である以上不可避と思われる。要は、善悪の線引きは非常に曖昧で万人の合意を得るのは困難であることだけはわかる。

 で、上記の前提を踏まえて、「悪をボコって良いのか」という問いに戻ろう。ボコって良いという前提に立つと生じるのは闘争である。異なる教義のぶつかり合いは宗教戦争という明らかに「悪い」(これは直感)事態につながる。この事態を避けるには前提を否定するほかない。すなわち、(その人が考える)悪すらも赦さねばならない。寛容の勧めがここにおいて現れる。(もちろん、この論証で妥協している「宗教戦争は悪」という直感を否定するというやり方もある。イスラームの聖戦に対する態度を見ると、こんな雰囲気を感じる。それもロジカルではあるけど、私の直感には少し合わないかなと。)

 ということで、やはり「誰も(文字通り。極悪人も含めて)不幸にしてはならない」は善の条件として有効に成立するのではないだろうか。

 「私」と他者A、Bの三人がいるとしよう。「私」はストア派的アタラクシアを幸福と据えるがAは名声と名誉を至高価値とし、Bは富及び肉体的快楽を至高価値とする人間であるとする。三者の「幸福」が相容れないとき「私」に何ができるだろうか。(例えば三人で事業を営んでいて、見知らぬ誰かの不幸を招くであろうが我々に莫大な富をもたらすアイデアを採用するか否かで論争しているとして。)

 「自分を幸福にし、誰も不幸にしない限りにおいて誰かを幸福にする」という戒律を厳密に守ろうとすれば、唯一できるのは「説得」ではないだろうか。今、検討されているのは少々グレーだが儲かる話を採用するか否かである。グレーであるというのは「誰も不幸にしない」に反するから、それを行えば「私」の幸福が傷つくのみならず名誉を重んじるBの幸福も傷つく。しかし儲かるのでAは幸福になる。そこで「私」は自分自身の戒律をAに説く。(善く生きるとは、誰も不幸にしないこと云々カンヌン。的な)それでAが心底納得すれば、全員幸福になる。(と、当たり前のことであるが・・)

 もちろんAは納得しないかもしれない。しかし納得するかもしれないのであり、納得した限りにおいて「私」の戒律は全て満たされ、「私の善さ」が証明される。説得に失敗すれば、「私」は悪に留まる。

 近現代的文脈での「公共空間」において同様のことが可能だろうか。パワー(暴力、富、名声その他)を行使して一定の価値観の受容を迫る態度は善いとは思わない。(これも、善いとする考えがあることはわかるが、私の直感と相容れない)それは「説得」ではなく「強制」であって、説得されない状況での強制は相手を不幸にしていると考えるからである。すると「善さ」は一切の強制力を持たずして他者と魂の対話を根気よく続けて説得する他にない。この説得は、「誰も不幸にすることなくその場の幸福を増やす」という意味において、「パレート改善」と言えるだろう。

 よってまとめると、私の考える善き生とは、「魂の対話と説得による半径5Mのパレート改善」ということになろう。(もちろん私の徳が増すにつれ、半径は拡大するだろう。とはいえ、半径6000キロまで拡張する自信は全く持てないが。。)

 まずは自分自身、家族や友人、職場という「対面の人間関係」において、善くあらんとして地道な努力を繰り返す他ない。

 

善く生きるとは 3

結局まとめると、私にとっての「善い生き方」は以下3点をバランスよく実現している状態のことを言うのではと暫定的に結論付けた。

1:自分自身が幸福でいること

2:可能な限り多くの他者を幸福にすること

3:誰も不幸にしないこと

 

1は、ストア哲学におけるアタラクシア、すなわち不動心の獲得。アタラクシアの砦を築きそこに安住することが自分の幸福。

2は利他的精神の勧めなのであるが、独善的になってはいけないと言うことで3の縛りをかけている。親切心で他者に何かを勧める時は、それが本当に相手の幸福になっているかをキリキリと考えねばならない。この思慮深さを徹底すると、凡そ断定的なことや強制的なことは誰にも言えなくなる。だからと言って他者との関わりを放棄して自分の幸福の砦に閉じこもるのは、「善い」態度とは思えない。この絶妙なバランスをいかに取るか。

 具体的に言うと、例えば耳障りのよい「公益的なこと」も、具に見ると誰かの抑圧を前提していたり(つまり誰かを不幸にしているあるいはその不幸を容認している)するので、私的には「善くない」。関わる人全員と腹割って対話して、全員が納得いく合意をして全員が幸福になるあるいは不幸にはならないと言う状況があれば理想的だが、それが可能なのは極小の共同体のみであろう。現代の公共空間では全員が直接話すことすら不可能であって、そこで「公益」と言ってみても、「多数派にとって気持ちの良い何か」以上の意味はないでしょう。それを推し進めるのは排除された人々の不幸を「公共善」の偽装のもとで容認・固定化・正当化するものであって、善くない。

 もっと突き詰めると、私の幸福すら、誰かの不幸を下敷きにしている。今日も吉野家の牛丼を食べたが、あの牛丼サプライチェーンにおけるエコロジカルフットプリントを考慮すれば、地球環境負荷を良しとしない人々の苦痛に私は加担していることになる。現代のグローバルサプライチェーン時代においては、普通に暮らすだけで、世界の誰かの不幸に加担しているので、もはや生きていることすら「善くない」となりうる。

 これに対する回答の一つは自給自足かもしれない。自分の生存を自分で完結させれば、誰かの不幸に加担することはない、よってこれが善い生き方の必要条件であろう。しかし山奥の隠者となって、2つ目の戒律をいかに守るのか。これが難しい。

 「山奥の聖職者」は一つのロールモデルかもしれない。一切の強制力は持たぬまま、生き方について、思想を人々に伝えることで、その人の幸福に貢献する。資源減耗社会では物理的制約が顕在化してくるので、賃金や政治参加等で制約が出てくる局面も増えよう。そこにおいて現代的物質主義・拡大・成長主義に浸っていれば「無い物ねだり」が続くばかりで幸福になれぬから、ストア哲学のような、内面に幸福の砦を築く方法論は、誰かしらの救済になるであろう。「足るを知れ」というこの教えは外的要因(資源配分)と幸福を切り離すので、理論上、誰も不幸にせずその人を幸福にできる。但しこの考えに改宗せよ、と武力で強制したり公共電波や資本、名声という資源を動員してある種のパワーを行使するのはダメ(相手にとってありがた迷惑になるから。)あくまで通りすがりの旅人のごとく、しかし真摯に思想を語る。受容するか否かは相手次第。こういう「受動的貢献」態度こそが、1−3を満足する、すなわち「善く生きる」ための現実的解かもしれない。

 では今すぐ会社も辞めて「自給自足・山の仙人」になるべく「転職活動」をするか、というと、厳しいものもある。今の快適な暮らしを捨てる覚悟はまだ持てない。1と2及び3が対立しているのだ。しかし目指す方向性として、「自給自足的聖職者」というものがあることを明確化しただけ、良しとしておこう。