The party in the high castle

遥かなる高みに聳える、アタラクシアの砦を目指して

救済と鎮魂

 プラトンアリストテレスエピクロスエピクテトスマルクスアウレリウスあたりの系譜を齧って「アタラクシア」すなわち不動心こそ幸福であり善であると考えてきたが、その中で、利他すなわち他者の幸福にどう貢献するかというのが大きなテーマになっている。利他は所詮虚栄でありどうでもいいではないか、という気もしなくもないのだが、日常の中でその気分が長続きすることはあまりない。「友好的感情」が善であり、「敵対的感情」が悪、といっては雑だろうか。でもこれは、かなり直感に合致する。

  戦争と平和というテーマを少し掘り下げる。争いのわかりやすいパターンは、希少資源を巡るものである。FEWS(希少のfewにかけて):Food, Energy, Water, Shelterが人間生存の4要素であり、「健康」の基盤とも言える。これが欠乏すれば純粋な生物学的闘争が生じることになる。しかしこれらが十分に満たされていても、人は争うのである。それは恐怖や虚栄心、怒り、嫉妬といった「赤黒い感情」によるものである。隣国の経済的軍事的成長に嫉妬と恐怖を覚えれば、対抗して自国の軍事力を増やそうとする。それが相手を刺激して軍拡になる。臨界点を超えると戦争になる。古代より戦争発生パターンとして知られる「トゥキュディデスの罠」だ。「善」が「友好的感情」であるならば、ここでいう「赤黒い感情」は明らかに悪である。論理的帰結として悪に行き着くものはやはり悪であるならば、例えば脅迫は悪である。銃口を突きつけられば恐怖が湧くし、その理不尽さに怒りも沸くのが普通だからだ。であるならば、「抑止力」もまた悪になる。それはニュートラルな言葉だが本質は脅迫だからだ。

 ここで「鎮魂」という概念が出てくる。鎮魂とはすなわち、敵対的感情を解毒して友好的感情に変換する説得作用を指す。隣国の成長を嫉妬と恐怖の目で眺める同胞に対しては、その懸念を払拭せねばならない。過大な野心と傲慢さで拡張する隣国の民には、節制を説かねばならない。これは明らかに理想的・空想的であるが、少なくとも「善」の論理が指し示す結論はこうなる。相手が怖いのは仕方ないから武装して抑止する、というのは、論理的には悪ということになる。

 ところで鎮魂というのは、敵対する相手側に対して言葉のみでできるものではない。敵から「まあ落ち着け」と言われて落ち着くバカはいないのである。ゆえにそれは専ら同胞に向けられるものになろう。相手の鎮魂は、こちらの譲歩という覚悟を示すことでのみ実現する。

 ところでFEWSが欠乏すれば、生物的宿命によって、やはり赤黒い感情が生じる。これを抑えることは「鎮魂」というより「救済」といった方が良さそうだ。飢えた人に食事を与える、家なき子に屋根を与える、凍える民に暖を取らせる。人間の生理的欲求を満たすことは、敵対的感情すなわち悪を除去するという意味で善である。(飢えた人も肥えた人も等しく怒りや嫉妬を覚えるだろうが、その度合いや頻度は大きく違うと思われる。衣食足りて礼節を知るという言葉もある。)

 そうであるならば、「鎮魂」と「救済」が、他者との関係において可能な「善」ということになる。顔の見えないアノニムな他者に対しては「鎮魂」のハードルは高い。私はむしろ、「救済」に尽力したいと思う。なお家族や友人、同僚といった「最小共同体」においては、この双方が実現可能であり、そのために努力するのが善い生き方ということになる。

  最後に思考実験として暴力的な武装集団に襲われるケースを想像しよう。そこで「鎮魂」の余地があるのだろうか。譲歩すればそれすなわち自らの生命財産、あるいは愛する家族や友人のそれを差し出すことになるのではないか。非暴力・不服従がありうるのか。蓋し「闘争」は悪であっても、「逃亡」は悪ではない。逃げるは恥だが役に立つとはよく言ったものである。逃亡先に新天地を見つけ、そこにおいてFEWSを満たす限りにおいて善は維持される。絶望的苦難にあっても希望のエクソダスはありうるのであり、その逃避行や新天地捜索の努力は尊いものであろう。人はその創意工夫と情熱によって、砂漠の中にも、海原の上にさえ生きることができる。FEWSの限界を乗り越えて幸福を掴むことができる。鎮魂の希望が絶たれた中でさえ善の光は消えない。

 FEWS, everywhere.これは善のスローガンである。